2017年07月02日
恩義ある名監督・我喜屋優氏の発言に対し、心を鬼にして批判します。間違った国のルールに従うなんて、言語道断です!!
【興南学園・我喜屋優氏の発言を読み、失望の念が一層膨らんだ日曜日】
琉球新報7月2日付3面のインタビュー記事を読んだ。
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-525762.html
率直に言って、沖縄の「教育界の劣化」を如実に示す深刻な内容である。

琉球新報が俎上に載せたのは、産経新聞5月22日付インタビュー記事。
この記事で辺野古移設の決定に従うべきであるという我喜屋氏の考えを知ったとき、わたしは目を疑い、Twitter経由でFacebook上にシェアするに際し、「失望どころではありません」との言葉を書き添えている。
本日、この記事を読んで、その気持ちが変わるどころか、失望感は一層膨らんでしまった。
はじめにお断りしておきたい。
わたしはある時期(2008年から11年頃にかけてのことだが)、我喜屋優・興南高校野球部監督に何度もインタビューさせていただいている。
2010年、春夏連覇が懸かった夏の甲子園では、1回戦から優勝決定の感動の瞬間まで、興南高校野球部に完全密着取材を敢行することができた。
小生の取材に対して常に真摯に応じてくださった我喜屋監督には、大いに恩義を感じている。
楽しき思い出をたくさん頂戴したことに心から感謝してもいる。
そして、スポーツ指導者としての我喜屋監督をリスペクトしてやまない。
これからも、野球場や練習グラウンドで向き合う機会があれば、野球部監督としての我喜屋優氏に、変わらぬリスペクトの思いを携えつつ接する自信がある。
それだけに、このところの我喜屋氏の一連の発言に関しては、誠に残念であるし、失望どころの話ではないのである。
我喜屋氏は、たまたま「復帰45周年」にタイミングを合わせた産経新聞のインタビュー企画に応じ、「一般論を語っただけ」なのだろうか。
産経新聞が、新基地建設問題に関してろくな取材もせず、ネトウヨの言い分のみを垂れ流して「新基地反対」の沖縄の民意を貶めてきたことは、良識ある多くの沖縄県民の知るところである。
百歩譲って、そういう産経新聞の「復帰45周年」インタビューに応えること自体を非難してはいけない、と認めたとしよう。
それでもなお、我喜屋氏の行動には、看過できぬ点が残る。
去る5月14日(復帰記念日直前の日曜)、我喜屋氏は、「沖縄県祖国復帰」を祝う日本会議系右翼勢力が催す恒例の集会(実行委員会事務所は沖縄県神社庁内=沖縄県神社庁と名乗っているが、もちろん行政組織としての沖縄県とは無関係の、実質は日本会議沖縄事務所に過ぎぬ団体だ)で、記念講演の重要な役割を果たしている。
その事実は、やはり「我喜屋氏の確信犯ぶり」を示す事実として見逃すわけにはいかないのだ。

「甲子園出場と祖国復帰の喜び」という演題で具体的にどんな内容の話をしたかまでは知らないが、これは、自衛隊音楽隊の演奏あり、会場の沖縄市民会館から胡屋十字路付近までの日の丸パレードとセットの集会での講演である。
興南学園理事長と興南中学校・興南高校の校長まで務める人物が参加すべき集会かどうか。冷静に考えれば、わかりそうなものである。ネトウヨ化著しい保守系政治家の同類とみなされても仕方のないことだと思う。
ネトウヨ化著しい政治家のなかには、自民党沖縄県連幹部もチーム沖縄の市長たちも含まれる。
自民沖縄県連が「辺野古推進」というとんでもない方針を打ち出した4月8日の大会で、県連会長の照屋守之県議は「国は親であり、県は子どもだ。子どもが一方的に親、国を批判して対決しており」それはよくないという、なんの根拠も説得力も持たない考えを開陳して県民を驚かせた。それと、我喜屋氏の言う「決まったこと(=辺野古移設)には従わなくてはならない」との考えは、完全に重なって見える。
我喜屋氏は、この度の琉球新報のインタビューでは、新基地問題に関する考えを問われ、徹底的にはぐらかそうとしている。
しかしそうしながら一方では、見事に機動隊員や家族をかばう。
なぜそこに機動隊員が投入され、沖縄の新基地建設阻止の民意を背負った人たちを排除する仕事をさせられているのか。
県民同士をいがみ合わせて、差別的な基地負担を押し付けようとする最も罪深い人間が、東京のどこかで笑って見下ろしているのではないか。
この重大な「そもそも論」を我喜屋氏は、完全に無視してしまっている。
嗚呼、ネトウヨが作成した「凶暴な反対派」を印象づけるビデオでも見せられ、事の本質が見えなくなってしまったのか?そう勘ぐりたくなるほどに、表層的な発言に終始している。
国は、選挙という民主主義のルールに則って正々堂々示した沖縄の民意を完全に無視し、国と地方自治体は対等と定めた改正地方自治法にも違反し、高等裁判所の人事にまで手を突っ込んで防衛省の言い分のコピペのような判決文を書かせ、最高裁はただそれを追認するのみであり、すなわち三権分立の事実上の崩壊までを、まざまざと見せつけた。
そして、例えば現に辺野古で繰り広げられているのは、違法性オンパレードの強行工事だ。
しかし、である。
間違ったことをしでかす親(国)にも子(沖縄県)は服従すべし。
自民県連も、我喜屋氏も、そう言っているに等しい。
罪深きヤマトゥンチュの末裔の移住者たるわたしから見ても、中央(安倍政権&自民本部)へのこの「過剰同化傾向」には、驚きを禁じ得ない。
本日ここに至り、わたしは危機感をもって明確な批判をこの我喜屋氏にも向けなければ駄目だと確信した。
恩義ある人、リスペクトに値する対象に対して、そう言わねばならないのは、じつに悲しいことである。
※問題の産経新聞記事はこちら。⇒http://www.sankei.com/politics/news/170522/plt1705220014-n1.html
琉球新報7月2日付3面のインタビュー記事を読んだ。
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-525762.html
率直に言って、沖縄の「教育界の劣化」を如実に示す深刻な内容である。

琉球新報が俎上に載せたのは、産経新聞5月22日付インタビュー記事。
この記事で辺野古移設の決定に従うべきであるという我喜屋氏の考えを知ったとき、わたしは目を疑い、Twitter経由でFacebook上にシェアするに際し、「失望どころではありません」との言葉を書き添えている。
本日、この記事を読んで、その気持ちが変わるどころか、失望感は一層膨らんでしまった。
はじめにお断りしておきたい。
わたしはある時期(2008年から11年頃にかけてのことだが)、我喜屋優・興南高校野球部監督に何度もインタビューさせていただいている。
2010年、春夏連覇が懸かった夏の甲子園では、1回戦から優勝決定の感動の瞬間まで、興南高校野球部に完全密着取材を敢行することができた。
小生の取材に対して常に真摯に応じてくださった我喜屋監督には、大いに恩義を感じている。
楽しき思い出をたくさん頂戴したことに心から感謝してもいる。
そして、スポーツ指導者としての我喜屋監督をリスペクトしてやまない。
これからも、野球場や練習グラウンドで向き合う機会があれば、野球部監督としての我喜屋優氏に、変わらぬリスペクトの思いを携えつつ接する自信がある。
それだけに、このところの我喜屋氏の一連の発言に関しては、誠に残念であるし、失望どころの話ではないのである。
我喜屋氏は、たまたま「復帰45周年」にタイミングを合わせた産経新聞のインタビュー企画に応じ、「一般論を語っただけ」なのだろうか。
産経新聞が、新基地建設問題に関してろくな取材もせず、ネトウヨの言い分のみを垂れ流して「新基地反対」の沖縄の民意を貶めてきたことは、良識ある多くの沖縄県民の知るところである。
百歩譲って、そういう産経新聞の「復帰45周年」インタビューに応えること自体を非難してはいけない、と認めたとしよう。
それでもなお、我喜屋氏の行動には、看過できぬ点が残る。
去る5月14日(復帰記念日直前の日曜)、我喜屋氏は、「沖縄県祖国復帰」を祝う日本会議系右翼勢力が催す恒例の集会(実行委員会事務所は沖縄県神社庁内=沖縄県神社庁と名乗っているが、もちろん行政組織としての沖縄県とは無関係の、実質は日本会議沖縄事務所に過ぎぬ団体だ)で、記念講演の重要な役割を果たしている。
その事実は、やはり「我喜屋氏の確信犯ぶり」を示す事実として見逃すわけにはいかないのだ。

「甲子園出場と祖国復帰の喜び」という演題で具体的にどんな内容の話をしたかまでは知らないが、これは、自衛隊音楽隊の演奏あり、会場の沖縄市民会館から胡屋十字路付近までの日の丸パレードとセットの集会での講演である。
興南学園理事長と興南中学校・興南高校の校長まで務める人物が参加すべき集会かどうか。冷静に考えれば、わかりそうなものである。ネトウヨ化著しい保守系政治家の同類とみなされても仕方のないことだと思う。
ネトウヨ化著しい政治家のなかには、自民党沖縄県連幹部もチーム沖縄の市長たちも含まれる。
自民沖縄県連が「辺野古推進」というとんでもない方針を打ち出した4月8日の大会で、県連会長の照屋守之県議は「国は親であり、県は子どもだ。子どもが一方的に親、国を批判して対決しており」それはよくないという、なんの根拠も説得力も持たない考えを開陳して県民を驚かせた。それと、我喜屋氏の言う「決まったこと(=辺野古移設)には従わなくてはならない」との考えは、完全に重なって見える。
我喜屋氏は、この度の琉球新報のインタビューでは、新基地問題に関する考えを問われ、徹底的にはぐらかそうとしている。
しかしそうしながら一方では、見事に機動隊員や家族をかばう。
なぜそこに機動隊員が投入され、沖縄の新基地建設阻止の民意を背負った人たちを排除する仕事をさせられているのか。
県民同士をいがみ合わせて、差別的な基地負担を押し付けようとする最も罪深い人間が、東京のどこかで笑って見下ろしているのではないか。
この重大な「そもそも論」を我喜屋氏は、完全に無視してしまっている。
嗚呼、ネトウヨが作成した「凶暴な反対派」を印象づけるビデオでも見せられ、事の本質が見えなくなってしまったのか?そう勘ぐりたくなるほどに、表層的な発言に終始している。
国は、選挙という民主主義のルールに則って正々堂々示した沖縄の民意を完全に無視し、国と地方自治体は対等と定めた改正地方自治法にも違反し、高等裁判所の人事にまで手を突っ込んで防衛省の言い分のコピペのような判決文を書かせ、最高裁はただそれを追認するのみであり、すなわち三権分立の事実上の崩壊までを、まざまざと見せつけた。
そして、例えば現に辺野古で繰り広げられているのは、違法性オンパレードの強行工事だ。
しかし、である。
間違ったことをしでかす親(国)にも子(沖縄県)は服従すべし。
自民県連も、我喜屋氏も、そう言っているに等しい。
罪深きヤマトゥンチュの末裔の移住者たるわたしから見ても、中央(安倍政権&自民本部)へのこの「過剰同化傾向」には、驚きを禁じ得ない。
本日ここに至り、わたしは危機感をもって明確な批判をこの我喜屋氏にも向けなければ駄目だと確信した。
恩義ある人、リスペクトに値する対象に対して、そう言わねばならないのは、じつに悲しいことである。
※問題の産経新聞記事はこちら。⇒http://www.sankei.com/politics/news/170522/plt1705220014-n1.html
Posted by watanatsu at 20:44
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