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2018年02月28日

【稲嶺進さんからのリレーバトンを握りしめて、わたしたちは走る、走り続ける(上)】


【稲嶺進さんからのリレーバトンを握りしめて、わたしたちは走る、走り続ける(上)】

 

 名護市長選から早くも1ヵ月が経とうとしています。
 
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「選挙イヤー2018」のいわゆる「オール沖縄」陣営は、65票の僅差で瑞慶覧チョービン新市長誕生の南城市長選の快挙を喜んだのも束の間、県知事選と並んで最重要と言われた名護市長選で、大変な事態に直面してしまった。

 辺野古新基地建設阻止の信念を貫き、政府から米軍再編交付金(新基地受け入れと引き換えの防衛省予算)をカットされても、2期8年で名護市の財政を好転させ、さぁ3期目で本物の「誇りある豊かさ」を築こうとしていた矢先の、われらが稲嶺進さんが、「オール沖縄」の精神的支柱ともいえた稲嶺進さんが、自公維の推す新人・渡具知武豊さんになんと3458票もの差をつけられて敗北を喫してしまった。

 能力・実績・人格、すべてにおいて申し分のないススムさんを、わたしたちは選挙で勝たせることができなかった。
 ショックをかみ締める日々が続いた。
 いや、ショックにうなだれているという意味ではない。新たな戦いが始まっていることを、ヒシヒシと感じている日々、なのである。

 その思いの一端を今、ブログに書き残しておきたい。まずは、投開票日(2月4日)前後のありのままのルポにお付き合いいただこう。
 (※以下のルポは、わたしが連載を持つ某団体定期刊行物に掲載した記事の一部に加筆修正したものである)


 2月3日の夕刻から、国道58号の交差点での稲嶺進候補陣営の最終の必勝演説会に立ち会った。
 市長候補(現職)の稲嶺進氏、市議補選候補(新人)の安次富浩氏(ヘリ基地反対協議会共同代表)、翁長雄志知事、城間幹子那覇市長、瑞慶覧長敏・新南城市長、「オール沖縄」の国会議員全員、名護市議会与党議員、県議会与党議員、市町村議員、勝手連的な稲嶺進サポーターの若者たち、さらには国政野党を代表して応援に来た国会議員らがずらりと街宣カーの上と前に並び、交差点の四角には、溢れんばかりの人の群れ。



 沖縄にしては厳寒と感じさせる10度前後まで気温が下がり、冷たい風も吹きつけていたが、わたしの尊敬する多くのウチナーンチュの先輩や友人とも会えて、温かい気持ちにさせられた時間だった。
 しかし、不安はぬぐえない。県内外の支援者がこの場にどれだけたくさん集まったとしても、実際の名護市内での集票活動がどの程度必死に行われているのか、気になって仕方がなかった。
 沖縄県民は、このところ辺野古新基地が最大の争点になったあらゆる選挙で、「新基地NO」の民意を明確に示し続けている。
 2014年の県知事選、2016年の参議院選、2017年の衆議院選などの国政・県政選挙のレベルではそうだ。その際には、空中戦と言われる戦い方も奏功してきた側面がある。演説集会の賑わいも、インターネット上での主張の拡散も相乗効果となる。最近の「オール沖縄」側の成功例で言えば、伊波洋一参議院議員や、辺野古や高江を抱える選挙区での玉城デニー衆議院議員、普天間基地を抱える選挙区での照屋寛徳衆議院議員の自公候補を寄せ付けなかった圧勝劇は記憶に新しい。
 だが、米軍基地のない市町村の首長選挙や、あるいは宜野湾市長選(2016年)などのように「辺野古新基地」が争点から外されてしまった場合には、自公協力の資金力・組織力・動員力が圧倒的な強さを見せつける。
 今回の名護市長選が、そのパターンにはまり込んでいないか、心配になっていた。

 必勝集会のあと、わたしは稲嶺進候補本人の乗る街宣カーを追いかけるつもりだったが、付近の道路は大渋滞。国道を走って追いかけることは断念して裏道へ入った。するとすぐ近くの十字路で、一人の若者がマイクを握っていた。音量は控えめで、素朴な語り口に好感が持てる。
 近づきながら、「聞き覚えのある声だぞ」と思った瞬間、よく知った顔と出くわしていた。
 名護市東海岸出身の大学生、渡具知武龍君だった。隣で父の武清さんが道行くドライバーに手を振り続けていた。
 知り合ったのは1997年の名護市民投票のときだから、渡具知ファミリーとは20年以上の付き合いになる。
 辻立ちスピーチは、武龍君自身が書いた原稿の朗読というスタイルだった。
 稲嶺市長の実績を語り、相手候補が事実上の辺野古新基地誘致派であること、米軍機の事故やトラブルについて伝え、未来ある子供たちが安心して暮らせる環境を作る市長を選びましょうと訴えていた。
 結局、渡具知父子の何ヵ所かでの辻立ちスピーチを追いかけ、稲嶺候補のクルマを追跡することはやめ、そうして夜8時の街宣終了時刻に選対本部事務所に到着。するとほぼ同時に稲嶺進市長のクルマが帰ってきた。事務所のボランティアスタッフや支持者支援者たちから拍手で迎えられ、候補者タスキを律子夫人から外してもらうところまでを見届けた。
 そしてそれから稲嶺氏に先回りする格好で、インターネット放送の生番組のスタジオへ。スタジオと言っても、早い話が後援会事務所の一角だ。
 じつは7日間の選挙戦の間、毎日夜8時半から、稲嶺氏は「未来へススムTV」という放送に生出演した。わたしも月曜から6日間連続で立ち会った。
 もちろんこの番組は、インターネットをよく利用する若い世代に政策と稲嶺氏の愛すべき人柄をアピールする狙いがあって設けられた番組だ。
 月曜日(1月29日)、番組を終えて帰路につく前の稲嶺市長に、わたしはスマホカメラを向けた。疲れも年齢も感じさせない若々しい笑顔が素敵だったので、わたしはそれからこの日土曜まで毎夜、スマホカメラで「お休み前のススムさん」の笑顔をFacebookに載せるのが日課になった。
 なかなかに評判がよかった。つくり笑いではない、本物の優しさのにじみ出ている顔だった。
 明日の投票日を残すのみとなったこの夜、わたしはシンプルに「本当にお疲れさまでした」と声をかけさせてもらった。
 稲嶺氏は、「感謝感謝です。ありがとう」と答えてくれた。役得で得た言葉を、わたしは彼を応援するすべての人に届けたくて、その夜の投稿にそのまま書いた。
 投開票日の朝は、辺野古漁港から、新基地建設ゴリ押し工事現場を眺め、座り込みテントにも顔を出した。
 いつもの日曜日と同じように、浜のテントにはたくさんの見学者が訪れ、いつものように、旧知のTさんやSさんが丁寧に説明役を買って出ていた。
 辺野古漁港から埋め立て用護岸工事の現場を眺めながら、ふと思った。この状況を撮影した写真が新聞に載り、ローカルテレビのニュースに流れるたびに、「もう手遅れだ」と感じてしまう人がいるのだろうか…。
 もしそうだとすれば、この現実の伝え方を、よほど注意深く研究しなければならない、と。
 名護市長選挙の投開票当日にそんなことに気付いたって遅すぎるかもしれない。しかし胸の内で、もう一人の自分がこう言った。
「遅すぎるということはないぞ。たしかに、そう気づいたからと言って、今日の選挙にはなんの影響もないかもしれない。でもお前は、危機感をますます抱くほどに、この選挙をしっかり取材した。だからこそ、真剣に考える気になった。だとすれば、立派な収穫じゃないか」
 それからわたしは辺野古をあとにして、プロボクシング世界タイトルマッチの試合会場、那覇の県立武道館へと向かった。
 なんと名護市長選の開票とWBC世界フライ級王者・比嘉大吾の沖縄での防衛戦が同じ夜に重なってしまったのである。
 比嘉大吾は、浦添市出身で高校時代は宮古島でボクシングの腕を磨き、卒業後は東京の白井・具志堅スポーツジムに所属し、プロデビューしてから一気に才能を開花させたボクサーだ。この日は、沖縄の先輩・浜田剛史氏らが持つ連続KOの日本記録15に並ぶチャンスでもあった。
 わたしは祈った。ぜひとも早いラウンドでのKO勝利を。そうなれば、開票中に、名護に戻ることができるかもしれない。
 するとどうだろう。比嘉大吾は本当に、1回2分32秒で挑戦者のモイセス・フェンテスをノックアウトしてしまったのである。
 わたしは幸先の良さを感じながら、記者会見にも出ずに名護へと向かった。
 しかし道中にクルマにややトラブルが生じ、予定より時間を食いながらのドライブとなってしまった。嫌な予感がした。
 すると、どうだ。
 名護に到着する直前で、相手候補・渡具知武豊氏に当確が出たことを、インターネット放送の音声で知ることになった。
 ハザードランプをつけ、路肩の安全な場所に一時クルマを停めて、画面に見入った。
 
 稲嶺進氏は、なんと正直な人なのだろうと思った。
 驚きと悔しさと憤りと悲しみが、すべてないまぜになって表情に出ていた。
 なんでこんなことになるのだ。
 稲嶺氏の心の叫びが聞こえたような気がして、しばし頭が真っ白になった。
 選対事務所にたどり着いたとき、すでに稲嶺進氏の姿はなかった。
わたしはその場に残っていた旧知の国会議員、県議会議員、市町村議会議員、ボランティアスタッフ、勝手連的応援団、報道関係者らと会話を交わして歩いた。
 沖縄通いを続けている全国放送在京キー局のあるキャスターは、こう述べていた。
「公明票2000、若年層1700、大体そのまんまの差が出た負けだと思う」
 わたしはそこまで断言する自信はないが、そんなに遠く外れている見立てでもないと感じた。
 渡具知候補は、記者クラブや地元大学生からの公開討論会・座談会出席の要請のみならず、身内ともいうべき青年会議所(JC)の公開討論会の求めさえ拒絶して逃げ回り、徹底的に争点を隠し、目先の経済振興策、生活向上策をアピールし続けた。
 取り巻き勢力のデマ攻撃も酷かった。
 明らかなデマによって稲嶺市政の実績を貶める中傷ビラ、怪文書、デマ攻撃の横断幕、さらにはいわゆるネトウヨを動員したインターネット上のデマ攻撃も激しかった。
 もちろん、政府与党によるあからさまなプレッシャーも目立った。
 暮れから1月にかけて、菅義偉官房長官、二階俊博自民幹事長はじめ、政府与党の幹部が次々に名護入りし圧力をかけ、公明支持母体の創価学会の原田稔会長が乗り込んでの恩納村での幹部集会では、金城勉公明沖縄県本部代表はが渡具知支援を強く訴えている。
 その結果、期日前投票への渡具知陣営の動員は爆発的に増えた。
 それに対して、わが稲嶺進陣営は、政府丸抱え候補陣営の圧力を撥ね返すだけの力はもちえなかった。
 例えば政府は、市民の間にあきらめムードを生じさせるため、とうに論理的に破綻をきたしている杜撰な計画であっても、連日無理やりにでも、辺野古側の浅瀬の「工事がやりやすいところだけ」でも、作業を続けた。砕石を海に落とし、コンクリートブロックで補強し、護岸を延ばし、その映像をメディアに撮らせた。
 でっち上げ、または軽微な容疑による不当逮捕も日常茶飯となり、警察発表情報として、これまた産経新聞をはじめとするメディアに垂れ流し報道をさせた。するといわゆるネトウヨは大喜び。
 民意無視の横暴な政府の新基地建設を止めるため、一分一秒でも工事を遅らせるために辺野古ゲート前に集う心ある市民を指して、「逮捕者続出の暴力集団」だとののしることになる。
 地元紙を読まずネットに情報源を頼っている若者は多い。名護市民の若者だってそうだ。
 政府と対立する市長じゃなくて、若者にとって楽しい街づくりをしてくれる市長がいい。映画館をつくろうとかスターバックスを出店させようとか、名護大通りに無料wifiを導入するとか、渡具知陣営からのそんな目先のプランのアピールが、意外にも若者たちには評判がよかったと聞く。
 辺野古新基地建設反対の民意は、マスコミ各社の出口調査でも軒並み6割を超えている。琉球放送の出口調査では、なんと75%にも達している。
 そうであるのに、新基地建設推進派としての爪と牙を隠しながら、ぬけぬけと「海兵隊の県外・国外移設を求める」と公約に掲げる市長が当選してしまった。公約を守らなければ許さないよ、と言い続けることは大切だが、彼が真っ向から矛盾する姿勢の表れとして、「米軍再編交付金」はもらうつもりだという言葉を発し続けてきたのも事実だ。
 
 稲嶺進さんはその夜、そうしたことも頭を駆け巡り、表層的な負け惜しみなんかではなく、本質的な悔しさで胸がいっぱいになってしまったのだと思う。潔い敗戦の弁の後、しばし絶句したものだ。
 その夜、稲嶺市長と会うことができなかったわたしは、翌朝、おそらくは彼が立っているはずの交差点へと向かった。
やはり、その人はいつも通り、そこにいて、黄色い「横断中」の旗を持ち、「交通む安全おじさん」として、子供たちを見守っていた。
 驚くほどいつも通りの、すこぶる自然体の笑顔だった。
【稲嶺進さんからのリレーバトンを握りしめて、わたしたちは走る、走り続ける(上)】
【稲嶺進さんからのリレーバトンを握りしめて、わたしたちは走る、走り続ける(上)】
【稲嶺進さんからのリレーバトンを握りしめて、わたしたちは走る、走り続ける(上)】
 子供たちはいつも通りにススムさんとのハイタッチに力をこめ、ある母親は、「これからも応援します」と心を込めた声を強く発し、深くおじきをしていった。ドライバーたちも、礼をし手を振り、軽やかなクラクションで励まし通り過ぎる。稲嶺進氏は、その都度笑顔で応える。
【稲嶺進さんからのリレーバトンを握りしめて、わたしたちは走る、走り続ける(上)】

地域の人びとにこんなに愛されている市長を、わたしたちは選挙で勝たせることができなかったのだ。
 せめて敗因をしっかりと分析し、明日のためにも、皆で語り合い、頑張るしかない。
 わたしはこう声をかけた。
「力になれなくてすみません。お役に立てなくてすみません」
 すると稲嶺市長は、これまた自然体のありがたい言葉を返してくれた。その言葉は宝物として、胸にしまわせてもらった。
 この期に及んで、こちらが励まされており、元気をいただいていた。
 次の瞬間、わたしはこう思えていた。
 戦いは何一つ終わっていない。むしろ今日から新たな戦いが始まっているのだ、と。

 ススムさん、2期8年、お疲れさまでした。本当にありがとうございました。
 わたしたちは、稲嶺進さんという有能にして誠実な一流の行政マン&政治家から、リレーのバトンをしっかり受け取ったのである。

 (つづく)




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Posted by watanatsu at 06:12 │人物論時事問題