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2014年05月14日

毎日新聞・西部本社版「オキナワ2014.5」シリーズ。第2回=いっこく堂さん(腹話術師)


さて、第2回。いっこく堂さんである。

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オキナワ2014.5◇第2回
腹話術師・いっこく堂さん 原点は「基地の街」
毎日新聞 2014年05月05日 西部朝刊

 ◇戦争のない世界、追求を
 神奈川県生まれだが、プロフィルには必ず「沖縄県出身」と書く。「人を笑わせる喜び、優しい心を持つ大切さを教えてくれたのは沖縄だから」。腹話術師、いっこく堂=本名・玉城一石(たまきいっこく)=さん(50)の原点は「基地の街」にある。
 5歳の時、沖縄出身の両親に連れられて復帰前の沖縄に移り、高校卒業までコザ市(現・沖縄市)で暮らした。自宅は米軍嘉手納基地のすぐそば。たくさんの米兵が身近に暮らしていた。「みんなフレンドリーで、チョコレートやキャンディーもくれて優しかった」。両親が営む食堂も米兵でにぎわった。
 だが、島の反米感情が暮らしを変える。1970年12月、米兵の交通事故処理を巡って起こった「コザ騒動」。怒号を上げ、嘉手納基地に向かって石や空き瓶を投げつける大人たち。次々に米軍車両をひっくり返し、火を放った。当時小学校1年生。「わけが分からないまま、見よう見まねで石を投げた」
 騒動後、米兵の外出禁止令で食堂は客が減り、閉店に追い込まれた。借金を返すため両親は必死で働いたが、生活は苦しかった。
 1年半後、沖縄は本土に復帰した。学校で復帰祝いの文房具をもらったが、方言は使わないよう指導された。通貨がドルから円に切り替わり、基地が残るままの復帰に反対するデモもあちこちで目にした。「復帰がいいことなのかどうか、よく分からなかった」
 仲間外れにされ、死を意識するほど悩んだ中学時代、テレビで初めて腹話術を見た。「僕も人を笑わせたい。人形を通してなら、友達に言えなかったことも言えるような気がする」と思った。
 高校卒業後、俳優を目指して上京。芽が出ず、28歳の時、腹話術師になろうと決めた。独学で習得し、30代半ばで人気者になった。
 古里への疑問も生まれていた。「なんで沖縄にはあんなに基地があるんだろう」。基地問題のニュースが気になるようになった。米軍輸送機オスプレイの強行配備でむしろ沖縄の負担が増えているようにみえる。普天間飛行場の移設先、名護市には両親が住んでいる。人ごとではない。
 基地はない方がいい。だが、沖縄の基地がなくなったら、周辺国はどう出るか。基地で働く友人らの生活はどうなるのか。自分でも答えが出せない。「世界中で戦争がなくならない限り、沖縄の基地はなくならないだろう」。一方で「戦争のない理想の世界を本気で追い求めない限り、沖縄の負の歴史は終わらない。理想を忘れてはいけない」とも思う。【福永方人、写真・内藤絵美】=つづく
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 ■人物略歴
 ◇いっこくどう
 これまで海外約20カ国で公演。2012年、子ども向けに腹話術師になるまでの半生をつづった初の著書「ぼくは、いつでもぼくだった。」(くもん出版)を出版。


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◇渡瀬の感想◇

第1回のゴリさんにつづいて、いっこく堂さんも率直に語っている。もっとたくさん語ったのであろうインタビューを紙面の都合で割愛されたには違いないが、記者も大事なエッセンスをうまくすくい上げてまとめたのだと察せられる。

いっこく堂さんの腹話術は、若くして「名人芸」の域に達しているが、「沖縄出身」の彼が、「二つの声を持ちつつ生きるということ」は、とても象徴的に感ぜられる。果たしてそう感じるのはわたしだけだろうか。

ご両親が名護に住んでいることは、この記事で初めて知った。

戦争のない理想の世界を忘れまいとする、いっこく堂さんの姿勢・思いに強く共感を覚えた。




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