2011年06月06日
ブログ再開。このところの備忘録的公開日記・1
「トホホ携帯写真館・神宮球場編」以来、坊主頭写真と石山さん講演会のOAMによるUst録画配信の告知を除けば、まぁざっと10日余りブログ記事を更新していなかったことになる。
その間も、毎日たくさんの方が当ブログを訪問してくださっていることが判明した。
この場を借りて御礼。いつもご訪問ありがとうございます。
本日未明、夢の中で「ブログを書きなさい」という声がした(これ、ホント)。
だから再びブログ記事を更新していくことに決めた。
大事な本業の原稿書きの進捗状況に関しては、このブログ更新によって左右されるものではないと気付いたところでもあった。大問題は、別問題。と、ようやく判明したのだ。
今後は、ブログを休むとか再開するとかお騒がせな宣言をしたりせず、気ままにマイペースでやっていこう。引き続きお付き合いいただける方は、よろしくお願いします。
当ブログの本旨は「備忘録的公開日記」ゆえ、まずはブログ休止期間中の出来事を振り返ろう。
◇5月26日(木)
5泊6日の東京滞在終了。ちょいと事情があり、「東京の仕事場」と称していた老親の住む実家の離れの荷物を整理して(昨年整えたばかりのネット環境も、少し前に解消)、夕方、帰沖。写真家・石川真生さんhttp://blog.livedoor.jp/ishikawamao/に那覇空港まで迎えにきてもらい、帰宅途中にラーメン屋に寄り、そこで真生さんの身の周りに起こった重大な出来事のあれこれについて耳を傾ける。聞いているわたしでさえ激しい憤りを禁じ得ないほどの出来事もある。しかしめげずに、前を向いて生きようとする真生さんである。真生さんを見習わねば、と思うのはこういうときの、強く前を向こうとする姿勢。
それにしても、K君(じつはK容疑者と書きたいところだ)。その父、M氏。事の重大さ、深刻さを少しも理解できていないようだ。人としての最低限の誠意を見せてほしいが、反省のないところからはそれも生まれない。しかしこのままでは済まぬ。Mさんよ、まるで他人事を眺めているかのようなその姿勢を改めぬ限り、大変なことになる。日頃立派なことを述べておられるMさん、過ちを犯した自分の息子に対して、自らの全存在をかけてでも、今こそまともな説教をすべきではないのですか!? (K君やM氏に伝わることを願ってわざとこういう書き方をしているので、関係のない皆さん、何のことかわからなくてごめんなさい)
夜、久々にクロエとポンと一緒にウォーキング。真生さんによれば、クロエがこのところ便秘気味だった。しかしわたしと散歩したら、3回も上等な「大」をした。これは喜ぶべきことなのか。しばし首を傾げたわたくしめであった。
◇5月27(金)
入れ替わりで、石川真生さんが名古屋へ出発。平和映画祭にゲストスピーカーとして招かれているのだ。朝、空港へお送りする。
◇5月28日(土)
民主党政権が自公政権時代のおぞましい「辺野古案」に回帰した日米合意を共同声明として発表してから、まる1年。ありがたくない「記念日」である。
強烈な台風が接近中だが、共同通信編集委員・石山永一郎さんを那覇空港までお迎えに。講演会は、暴風警報が出ない限りは、予定通り開催と決めてある。飛行機も無事飛んだ。車中ゆんたく(おしゃべり)しながら、講演会会場の沖縄国際大学へ直行。
石山さんをお招きしてのスペシャル・トークライブ「普天間から震災まで~全国メディアが伝えなかったこと~」は、期待にたがわず有意義なものになった。
収穫のひとつは、ケビン・メア氏(前米国務省日本部長、元沖縄総領事)の「沖縄はゆすりの名人」「日本政府は沖縄県知事に対して『金が欲しいのなら、(辺野古基地建設同意の)サインをしろ』と言うべきだ」などという暴言・差別発言が、やはり事実として認定されるべきものであるとわかったこと。「(発言録は)正確でも完全でもない」「歪曲だ」という公式発言によって抵抗を示しているメア氏本人が、非公式には発言の中身は本当だと認めている、という事実も、取材当事者の石山さんによって明らかにされたのだ。
また、被災地支援「トモダチ作戦」の成功が喧伝された沖縄駐留米海兵隊についても、震災当日はマレーシア付近での訓練中で、被災地に到着するのに11日もかかっていたこと、民間ボランティア団体のほうが、はるかに即応力や柔軟な対応力があることなども明らかになった(念のため書いておくが、これは、米軍や自衛隊の救援・復旧支援活動を否定するものではない)。
あるいは、鳩山前首相の「抑止力は方便」発言を引き出したインタビュー(じつはこれも石山さんらが行ったもの)の中身と、このところウィキリークスによって暴かれた鳩山首相の足を引っ張り、米国にこびへつらい続けてきた外務・防衛官僚の存在を照らし合わせてみれば、辺野古はもとより「普天間基地の県内移設」の説得力の無さが浮き彫りになった。これが改めて確認できたことも、収穫だった。
つまり、わたしたちは間違っていないことが確認できたのだ。
普天間基地の「県外・国外移設」を、堂々と求め続けてよいという裏付けを、改めて得ることができた。そのような講演会となったのである。
石山さん、そして聞き手としての重要な役割を快く務めて下さった沖縄タイムス論説兼編集委員の屋良朝博さん、本当にありがとうございました。それに、ネオキの会メンバーであり今回も教室使用責任者となって下さった沖縄国際大学教授の佐藤学さんには、会場準備も含めて、結果的にたくさんの負担をおかけした。参加メンバーの一人として、恐縮感謝雨あられである。一方、学先生に頼りすぎはよくないなぁ、と痛感した次第。
さて、学先生はじめネオキの会メンバーが会場のあと片付けを始めた時間、わたしは石山さんと屋良さんを打ち上げ会場の居酒屋へお連れして、ひと足お先に三人で「お疲れさま乾杯」。じつはわたしは、ここまで2ヵ月半ほど断酒中であったのだが、こういう役回りになった時点で、「一日限定・飲酒解禁」を決意。メンバーみんなが席に揃ったころには、コチトラかなり出来上がっていたと思われるのである。
この講演会開催の言いだしっぺとも言える写真家・石川真生さんは、先に述べたように、この日名古屋の平和映画祭に招かれてトークを繰り広げていて(スケジュールというものはかち合うときにはかち合うものなのだ)、途中、わたしの携帯に「台風は大丈夫?」「会場には何人ぐらい集まった?」とメールをくれていた。もちろんいちいちメール返信しつつも、わたしは徐々に酔いのただなかへと没入していったわけである。
どうでもいい話をついでに書くと、わたしにとって、断酒・禁酒は全然苦にならないものである。最近も、2009年8月から10年8月まで丸1年、思うところあってアルコールを完全に断っていた。飲まないと決めたら、こう見えて意志は貫徹するタチである。ところが、さぁ飲むぞと決めたときには「ほどよくたしなむ」ということがサッパリできないのである。ガブガブ飲んで、酩酊する。(もちろん一部ではあるが)記憶を失うことも、全然珍しくない。ああこのクセ、若いころから、なーんも変わっていない。
そうして案の定というべきか、この夜、個人的な事件が起こった。
財布を失くしたのだ。
沖縄に住んでから、これで2度目。1度目は、移住して間もなく、某コールセンターでアルバイトをしていたころ。職場の仲間との懇親会で、すきっ腹に酒を詰め込み、お開きのあと、わたしだけ居酒屋のビルの階段にしゃがんだまま寝込み、ズボンの後ろポケットの財布を、あっさりスラれてしまった。
そのときは現金の被害はあまりなかったが、カード類をストップ・再発行するだけでも、難儀した記憶がある。で、今回はというとカード類をストップしたのは同様だが、さらに、貧乏人のわたしにしては珍しく、その日に限ってン万円所持しており(週末にいくつかの支払いをしようと思って、金曜の時点で銀行から金を引き出していたのがいけなかった)、それも一夜の暴風とともに去りぬ。アイタタタッ、であったのだ。
2次会の場となった岡留安則さん(元「噂の真相」編集長。那覇市在住)のお店で、良心的極安勘定を支払ってお釣りをもらったところまではっきり覚えているのだが、そのあとがいけなかったようだ。
店を出てその雑居ビルの階段でスッテコロリン(エレベーターは台風のせいで停まってしまっていた。その事件については、岡留さんのブログの6月1日付の記事→http://www.uwashin.com/2004/indexdiary.htmlやネオキの会メンバー友利さんのブログ→http://elephantlife.ti-da.net/e3574202.htmlにも書かれています)。打撲はたいしたことなかったのだが、もしかしたらあの弾みでズボンのポケットから財布がポロリ、ということは十分考えられる。そのあと、石山さんをホテルへお送りしてから帰宅したタクシー車中の座席でポロリということも、これまた十分に考えられる。タクシー(この支払は、小銭入れ内のカネでなんとか賄えた模様)への乗り降りの瞬間の路上へのポロリもあり得るが、いずれにしてもあの暴風だ。瞬時に100メートルぐらい飛ばされてしまったことだろう。翌日曜から月曜にかけて、タクシー協会に問い合わせ、警察に届けを出し、岡留さんにも念のためわたしが座っていたあたりのソファ近辺の捜索をお願いしたが(お騒がせして、すみません!!)、駄目だった。
なぜこんな恥ずかしいことをあえて書いたかというと、喉元すぎると反省の気持ちが薄れがちな己への戒めにほかならない。
もうこうなったら、酒を飲むときは、何千円かの居酒屋代のみを握りしめて出かけることにする。2次会等でカネが足りなくなりそうだったら、その夜の勘定分だけは誰かに借りる。と、たったいま、今後の勝手なルールを決めたので、皆様、ゆたしくゴザイマス。
しかし、タクシーで豊見城の石川邸周辺住宅街へ近づいたとき、あたりが真っ暗闇だったのには驚いた。運転手さんによると、那覇市内や周辺でもあちこちで、真っ暗闇の住宅街が出現しているとのことだった。という会話もしっかり覚えているのだから、極端な酩酊ではなかったか。。。。と己をしばし慰めてみる。
いずれにしても、あの台風の夜から、一滴もアルコールを口にしていないことは言うまでもない。そもそも続いていた断酒状態に戻っただけなのであるが。。。。思い出として深く脳裡に刻まれる一日となったことは間違いない。
台風の猛威、大きな爪痕を思い知るのは、二日酔いのまま目覚めた翌朝のことであった。

(つづく)
その間も、毎日たくさんの方が当ブログを訪問してくださっていることが判明した。
この場を借りて御礼。いつもご訪問ありがとうございます。
本日未明、夢の中で「ブログを書きなさい」という声がした(これ、ホント)。
だから再びブログ記事を更新していくことに決めた。
大事な本業の原稿書きの進捗状況に関しては、このブログ更新によって左右されるものではないと気付いたところでもあった。大問題は、別問題。と、ようやく判明したのだ。
今後は、ブログを休むとか再開するとかお騒がせな宣言をしたりせず、気ままにマイペースでやっていこう。引き続きお付き合いいただける方は、よろしくお願いします。
当ブログの本旨は「備忘録的公開日記」ゆえ、まずはブログ休止期間中の出来事を振り返ろう。
◇5月26日(木)
5泊6日の東京滞在終了。ちょいと事情があり、「東京の仕事場」と称していた老親の住む実家の離れの荷物を整理して(昨年整えたばかりのネット環境も、少し前に解消)、夕方、帰沖。写真家・石川真生さんhttp://blog.livedoor.jp/ishikawamao/に那覇空港まで迎えにきてもらい、帰宅途中にラーメン屋に寄り、そこで真生さんの身の周りに起こった重大な出来事のあれこれについて耳を傾ける。聞いているわたしでさえ激しい憤りを禁じ得ないほどの出来事もある。しかしめげずに、前を向いて生きようとする真生さんである。真生さんを見習わねば、と思うのはこういうときの、強く前を向こうとする姿勢。
それにしても、K君(じつはK容疑者と書きたいところだ)。その父、M氏。事の重大さ、深刻さを少しも理解できていないようだ。人としての最低限の誠意を見せてほしいが、反省のないところからはそれも生まれない。しかしこのままでは済まぬ。Mさんよ、まるで他人事を眺めているかのようなその姿勢を改めぬ限り、大変なことになる。日頃立派なことを述べておられるMさん、過ちを犯した自分の息子に対して、自らの全存在をかけてでも、今こそまともな説教をすべきではないのですか!? (K君やM氏に伝わることを願ってわざとこういう書き方をしているので、関係のない皆さん、何のことかわからなくてごめんなさい)
夜、久々にクロエとポンと一緒にウォーキング。真生さんによれば、クロエがこのところ便秘気味だった。しかしわたしと散歩したら、3回も上等な「大」をした。これは喜ぶべきことなのか。しばし首を傾げたわたくしめであった。
◇5月27(金)
入れ替わりで、石川真生さんが名古屋へ出発。平和映画祭にゲストスピーカーとして招かれているのだ。朝、空港へお送りする。
◇5月28日(土)
民主党政権が自公政権時代のおぞましい「辺野古案」に回帰した日米合意を共同声明として発表してから、まる1年。ありがたくない「記念日」である。
強烈な台風が接近中だが、共同通信編集委員・石山永一郎さんを那覇空港までお迎えに。講演会は、暴風警報が出ない限りは、予定通り開催と決めてある。飛行機も無事飛んだ。車中ゆんたく(おしゃべり)しながら、講演会会場の沖縄国際大学へ直行。
石山さんをお招きしてのスペシャル・トークライブ「普天間から震災まで~全国メディアが伝えなかったこと~」は、期待にたがわず有意義なものになった。
収穫のひとつは、ケビン・メア氏(前米国務省日本部長、元沖縄総領事)の「沖縄はゆすりの名人」「日本政府は沖縄県知事に対して『金が欲しいのなら、(辺野古基地建設同意の)サインをしろ』と言うべきだ」などという暴言・差別発言が、やはり事実として認定されるべきものであるとわかったこと。「(発言録は)正確でも完全でもない」「歪曲だ」という公式発言によって抵抗を示しているメア氏本人が、非公式には発言の中身は本当だと認めている、という事実も、取材当事者の石山さんによって明らかにされたのだ。
また、被災地支援「トモダチ作戦」の成功が喧伝された沖縄駐留米海兵隊についても、震災当日はマレーシア付近での訓練中で、被災地に到着するのに11日もかかっていたこと、民間ボランティア団体のほうが、はるかに即応力や柔軟な対応力があることなども明らかになった(念のため書いておくが、これは、米軍や自衛隊の救援・復旧支援活動を否定するものではない)。
あるいは、鳩山前首相の「抑止力は方便」発言を引き出したインタビュー(じつはこれも石山さんらが行ったもの)の中身と、このところウィキリークスによって暴かれた鳩山首相の足を引っ張り、米国にこびへつらい続けてきた外務・防衛官僚の存在を照らし合わせてみれば、辺野古はもとより「普天間基地の県内移設」の説得力の無さが浮き彫りになった。これが改めて確認できたことも、収穫だった。
つまり、わたしたちは間違っていないことが確認できたのだ。
普天間基地の「県外・国外移設」を、堂々と求め続けてよいという裏付けを、改めて得ることができた。そのような講演会となったのである。
石山さん、そして聞き手としての重要な役割を快く務めて下さった沖縄タイムス論説兼編集委員の屋良朝博さん、本当にありがとうございました。それに、ネオキの会メンバーであり今回も教室使用責任者となって下さった沖縄国際大学教授の佐藤学さんには、会場準備も含めて、結果的にたくさんの負担をおかけした。参加メンバーの一人として、恐縮感謝雨あられである。一方、学先生に頼りすぎはよくないなぁ、と痛感した次第。
さて、学先生はじめネオキの会メンバーが会場のあと片付けを始めた時間、わたしは石山さんと屋良さんを打ち上げ会場の居酒屋へお連れして、ひと足お先に三人で「お疲れさま乾杯」。じつはわたしは、ここまで2ヵ月半ほど断酒中であったのだが、こういう役回りになった時点で、「一日限定・飲酒解禁」を決意。メンバーみんなが席に揃ったころには、コチトラかなり出来上がっていたと思われるのである。
この講演会開催の言いだしっぺとも言える写真家・石川真生さんは、先に述べたように、この日名古屋の平和映画祭に招かれてトークを繰り広げていて(スケジュールというものはかち合うときにはかち合うものなのだ)、途中、わたしの携帯に「台風は大丈夫?」「会場には何人ぐらい集まった?」とメールをくれていた。もちろんいちいちメール返信しつつも、わたしは徐々に酔いのただなかへと没入していったわけである。
どうでもいい話をついでに書くと、わたしにとって、断酒・禁酒は全然苦にならないものである。最近も、2009年8月から10年8月まで丸1年、思うところあってアルコールを完全に断っていた。飲まないと決めたら、こう見えて意志は貫徹するタチである。ところが、さぁ飲むぞと決めたときには「ほどよくたしなむ」ということがサッパリできないのである。ガブガブ飲んで、酩酊する。(もちろん一部ではあるが)記憶を失うことも、全然珍しくない。ああこのクセ、若いころから、なーんも変わっていない。
そうして案の定というべきか、この夜、個人的な事件が起こった。
財布を失くしたのだ。
沖縄に住んでから、これで2度目。1度目は、移住して間もなく、某コールセンターでアルバイトをしていたころ。職場の仲間との懇親会で、すきっ腹に酒を詰め込み、お開きのあと、わたしだけ居酒屋のビルの階段にしゃがんだまま寝込み、ズボンの後ろポケットの財布を、あっさりスラれてしまった。
そのときは現金の被害はあまりなかったが、カード類をストップ・再発行するだけでも、難儀した記憶がある。で、今回はというとカード類をストップしたのは同様だが、さらに、貧乏人のわたしにしては珍しく、その日に限ってン万円所持しており(週末にいくつかの支払いをしようと思って、金曜の時点で銀行から金を引き出していたのがいけなかった)、それも一夜の暴風とともに去りぬ。アイタタタッ、であったのだ。
2次会の場となった岡留安則さん(元「噂の真相」編集長。那覇市在住)のお店で、良心的極安勘定を支払ってお釣りをもらったところまではっきり覚えているのだが、そのあとがいけなかったようだ。
店を出てその雑居ビルの階段でスッテコロリン(エレベーターは台風のせいで停まってしまっていた。その事件については、岡留さんのブログの6月1日付の記事→http://www.uwashin.com/2004/indexdiary.htmlやネオキの会メンバー友利さんのブログ→http://elephantlife.ti-da.net/e3574202.htmlにも書かれています)。打撲はたいしたことなかったのだが、もしかしたらあの弾みでズボンのポケットから財布がポロリ、ということは十分考えられる。そのあと、石山さんをホテルへお送りしてから帰宅したタクシー車中の座席でポロリということも、これまた十分に考えられる。タクシー(この支払は、小銭入れ内のカネでなんとか賄えた模様)への乗り降りの瞬間の路上へのポロリもあり得るが、いずれにしてもあの暴風だ。瞬時に100メートルぐらい飛ばされてしまったことだろう。翌日曜から月曜にかけて、タクシー協会に問い合わせ、警察に届けを出し、岡留さんにも念のためわたしが座っていたあたりのソファ近辺の捜索をお願いしたが(お騒がせして、すみません!!)、駄目だった。
なぜこんな恥ずかしいことをあえて書いたかというと、喉元すぎると反省の気持ちが薄れがちな己への戒めにほかならない。
もうこうなったら、酒を飲むときは、何千円かの居酒屋代のみを握りしめて出かけることにする。2次会等でカネが足りなくなりそうだったら、その夜の勘定分だけは誰かに借りる。と、たったいま、今後の勝手なルールを決めたので、皆様、ゆたしくゴザイマス。
しかし、タクシーで豊見城の石川邸周辺住宅街へ近づいたとき、あたりが真っ暗闇だったのには驚いた。運転手さんによると、那覇市内や周辺でもあちこちで、真っ暗闇の住宅街が出現しているとのことだった。という会話もしっかり覚えているのだから、極端な酩酊ではなかったか。。。。と己をしばし慰めてみる。
いずれにしても、あの台風の夜から、一滴もアルコールを口にしていないことは言うまでもない。そもそも続いていた断酒状態に戻っただけなのであるが。。。。思い出として深く脳裡に刻まれる一日となったことは間違いない。
台風の猛威、大きな爪痕を思い知るのは、二日酔いのまま目覚めた翌朝のことであった。

(つづく)
Posted by watanatsu at 11:51
│身辺雑記