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2010年02月10日

立松和平さんの訃報に接し、与那国に想いをはせる。

作家の立松和平さんが8日に亡くなった。

昨夕のテレビニュースで知った。ちょうどわたしより一回り上、亥年生まれの62歳。早すぎるとしか言いようがない。

親しくさせていただいたわけではない。というか、電話で会話させていただいただけの関係。しかも、20数年前に一度きり。わたしが駆け出しの雑誌記者として、日中バタバタ走り回り、夜はしょっちゅう編集部に泊まり込んで作業をしていた、超多忙なバブル絶頂期の話。立松さんは、映画化もされた『遠雷』という小説で、すでに高い評価を得たあとだった。だから、雑誌編集記者としてのわたしの頭の中の「気になる文化人リスト」には、立松さんの名も入っていたはず。

しかしそのとき、何についてコメントを求めたのか、それともインタビューを申し込んで断られただけだったのか、まるで覚えていない。はっきり記憶にあるのは、そのときの電話は編集部からではなく、当時住んでいた杉並区のアパートの部屋からかけていたこと、それゆえか与那国島の話題を心置きなく持ち出すことができて、その瞬間から打ち解けた空気が互いの間に生まれたこと、である。

「そうかぁ、君のほうが先輩なんだな」

電話の向こうの立松さんはそう言って笑った。後に「ニュースステーション」のリポートでよく知られるようになった、栃木なまりのあの声で。

わたしは1978年、79年、83年と3シーズン、「与那国島サトウキビ刈り援農隊」に参加している(正確には83年は島の農協に直接連絡しての個人参加だった)が、立松さんも、81年に「援農隊」の一員として、同じように島の農家に住み込み、畑で汗を流していたのである。

立松さんが投宿し、その後も家族付き合いを続ける大嵩さんという農家と、わたしが最初の年に世話になった花城さんという農家は親しく、まさに「ゆいまーる」の仲間でもあったので、後にわたしは花城さんのオヤジさんから、立松さんの活躍ぶりを聞かされたりもした。逆に立松さんの文章に花城さんが登場することもあった。いずれにせよ、はるか年下の若造が、「サトウキビ刈り」に関しては少しだけ先輩だったわけである。

わたしは、その電話でいつかお会いできればありがたい、と申し上げ、立松さんも、そうだね、と同意してくれていた。しかしその後、わたしは積極的にアプローチすることもなく、一読者として時々小説は読ませてもらいながら、あっという間に今日に至ってしまったのある。

沖縄県では、離島も含めて、今がサトウキビ収穫シーズンの真っ只中である。

シーズン開幕に合わせて「援農隊」の世話人として与那国島に通っている人がいる。藤野雅之さんである。

藤野さんは、共同通信の文化部記者時代にこのボランティア活動を開始し、文化部長や取締役を経て、定年退職後の現在も、大学で教壇に立つ傍ら、ずーっと世話人を務めている人だ。なんと「援農隊」は、今年で35年目を迎えている。

29年前、立松和平さんを与那国島のサトウキビ畑へ誘ったのも、藤野さんにほかならない。わたしはといえば、若い頃に間接的にお世話になっていたのだが、4年前、沖縄へ移り住むときに藤野さんに初めてご挨拶した(約30年もご挨拶しそびれていたのだ)。

それ以来、藤野さんは、与那国の帰りに那覇へ立ち寄るとき、わたしにも声をかけてくださるようになった。

しかし今年は、わたしが東京に長期滞在中で那覇でお会いすることもかなわず、藤野さん恒例の『与那国紀行』を、ちょうど数日前からネット上で拝読していたところだった。

その紀行文では、援農隊や島の農業の様子だけでなく、台湾との交流による島おこしの可能性や、政権交代によってその進展が望めるのか、否か。さらに藤野流観光振興プラン。あるいは昨年世間を騒がした自衛隊誘致問題などにも筆が及んでいる。

藤野さんの旧知の島人たちの近況のみならず、本土から移住した女性が、島の伝統工芸の「与那国花織」の担い手として、島に根を下ろし、リーダーとして頑張っている姿も描かれ、力作となっている。

この国境の島には、昔から移住者が多い。だから島では、よそからやってきた人にも、その能力を十分発揮してほしい、島のために役に立ってもらおう、という共通認識が、きちんと生きている。そのことを思い起こさせてくれる文章だった。

『与那国紀行』の7回目は昨日2月9日付でアップされ、その途中から急遽、立松和平さんのことに。

わたしが説明するより、読んでいただいたほうが、よろしい。

藤野さんのホームページ「蓼川亭通信」は、当ブログ左サイドの「お気に入り」欄にも掲示してあるけれど、直接『与那国紀行』を読んでいただけるアドレスは次の通り。
↓↓↓
「蓼川亭日記」http://homepage3.nifty.com/fujino/diary.html

涙腺がゆるんだ。感慨深かったのは、立松さんが、例の「盗作騒動」でバッシングを受けていたとき、寄り添い励ましていたのも、藤野さんだったという、その事実を知り得たこと。

昨今、ひとつの報道に右に倣えで、メディアに雪崩現象が起きるのを、何度も見せ付けられてきた気がする。そのたびに、著しい精神的苦痛を味わう「報道被害者」が生まれてきた。

保身に走る編集者からも見捨てられ、孤立無援の状況でパニックに陥った立松さんのそばに、藤野さんというベテランジャーナリストが寄り添っていた。それは立松さんにとって、文字どおり、救いであったはずである。

その後の立松和平さんは、ますます大自然を愛し、禅の世界にも傾倒していった。わたしにとっては、改めて気になる作家となってくれたところだった。

ご無沙汰している与那国島を、訪ねたくなった。

立松さん、ゆっくりお休みください。合掌。





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Posted by watanatsu at 15:31 │哀悼