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Posted by TI-DA at

2014年05月10日

元FC琉球GM・田部和良さん、逝く。

日付変わって昨日(5月9日)のことだ。
田部和良さん(2010年から12年までFC琉球GM)の訃報が飛び込んできて、言葉を失った。
http://web.gekisaka.jp/news/detail/?138535-138535-fl

写真は、桜坂劇場の市民大学講座で講師を務めた田部さんの10回連続講義の最終日(2011年3月24日)のスナップ。つまりわたしも受講生の一人だった。


この日は、沖縄の大切な友人=平仲信敏(プロボクシング元日本フェザー級チャンピオン)の命日であり、東京に住むわが父の誕生日でもあった。わたしが田部さんを写した写真は、後にも先にも、いわゆるガラケーカメラで撮ったこのスナップ1枚のみ。今思えば、なんだか不思議な一日であった
その日のことを書いた翌日のブログはこれだ。→http://watanatsu.ti-da.net/e3351454.html

さきほど気になって当方のブログ内で検索したら、やはり田部さんのことを何度か書かせてもらっていた。沖縄への置き土産のように残した彼のブログは今も閲覧することができる。http://watanatsu.ti-da.net/e3361363.html → 「琉球のサッカー」http://tanabekazuyoshi.ti-da.net/

いま田部さんの人生を無理やり端折って解説しようとすることは不遜であるという気がしているが、3年ほどの沖縄生活のなかで、田部さんが沖縄の人と風土と文化に対して、日に日に理解と愛情を深めていったことを、わたしも少しは知っている。田部さんが、もっと長く沖縄に住んでいたらどうだったろうか、とないものねだりを承知でふと思う。

わたしより若い52歳だった。

わたしの身の上にだって、いつ何が起こるかわからない。
ならば、いまここに生かされていることに感謝して、大好きな沖縄に少しは恩返しできるように、遠慮なんか一切せず、与えられたこの命を使って、あれもこれも、やりたいことをひとつずつ一所懸命やらせてもらおう。そう思う。

田部さん、お疲れさまでした。
ご縁に感謝します。
安らかにお休みください。

合掌。
  


Posted by watanatsu at 01:35哀悼

2013年01月26日

『生きているということは』…常盤新平さんに捧ぐ。

別の場所にも書かせていただいたが、わたしにとって恩人の作家・常盤新平さんが亡くなったのは、1月22日の夜のことである。

asahi.comより引用(2013年1月22日22時35分の記事)http://www.asahi.com/obituaries/update/0122/TKY201301220376.html?tr=pc
↓↓↓

作家・常盤新平さん死去 「遠いアメリカ」で直木賞

 直木賞作家で、アメリカの現代文学を紹介してきた翻訳家の常盤新平(ときわ・しんぺい)さんが、22日午後7時12分、肺炎のため東京都町田市の病院で死去した。81歳だった。葬儀は近親者で行う。喪主は妻陽子さん。

 岩手県生まれ。早川書房に入社し、ミステリー小説誌「ハヤカワ・ミステリマガジン」の編集長を務めた。退社後に文筆生活に入り、自伝的小説「遠いアメリカ」で、1987年に第96回直木賞を受賞した。主な翻訳書にアーウィン・ショーの「夏服を着た女たち」など。ウォーターゲート事件の内幕を描いた「大統領の陰謀」も翻訳した。


           *

その夜、たまたまわたしはFacebook友達がアップしてくれているこの動画に気づき、視聴して、しみじみとしていた。
上條恒彦が歌う『生きているということは』。

http://www.youtube.com/watch?v=rW_AN3igKks


この動画を観て聴いて、それから間もなく、別件の調べものをするためネットでニュースを検索したとき、偶然にも常盤新平さんの訃報に接したのである。

常盤さんは、私の初めての著作『銀の夢 オグリキャップに賭けた人々』が講談社文庫におさめられたとき、巻末の解説文を書いてくださった方である。



その数年前にアメリカはケンタッキー州の牧場地帯からニューヨークへと旅をともにさせていただいたときの思い出を交えて、過分な励ましのエッセイを寄せて下さったのである。

あの頃、しばしば酒席をともにさせていただいた。
人生の先輩風を吹かせるようなこともなく、現代アメリカの文学や文化に関する当方の素朴な質問に対して、面倒くさがらずに丁寧に答えて下さったものである。

折にふれての常盤さんのご教示が、物書きになろうと心に決めつつあった20代の終わりから30代前半にかけてのわたしにとって、大いなる刺激となったことは言うまでもない。厳密に言えば、お付き合いを始めた頃のわたしの主な仕事は「雑誌編集者」としてのそれであった。若手編集者としてのわたしが、翻訳家としての長年の実績がある上に直木賞受賞作家としてますます脚光を浴びている常盤さんと、どんな面白い仕事をしようかと企み、語り合う、そのことに重きが置かれていたわけである。「常盤新平の世界の競馬紀行」が、当面の目玉企画であったが、その企画を認めてくれた雑誌は、間もなく休刊の憂き目にあい、企画自体が白紙に戻ってしまった。

当然と言うべきだろうか、「編集者」としてのわたしが常盤さんとお会いする頻度は減っていき、やがて、わたしはライターの道へと一歩踏み出すことになった。そうしてわたしが本を書いたとき、常盤さんは心から喜んでくださった。励ましてくださった。受賞もわが事のように祝ってくださった。
自著の文庫本の解説文を書くようにわたしを指名してくださったこともある。「これも励ましの一種だなぁ」と痛感したものだ。

しかし、わたしはまだ、その励ましの言葉に応えることができていない。
お世話になったまま、恩返しができていない。
三日前に訃報に接したとき、ただただそのような思いに包まれ、途方に暮れてしまった。

東京から遠く離れた沖縄へ移り住んでからは、お会いする機会がほとんどなくなってしまっていた。
この間、わたしはいったい何をしていたというのだ…。

そんな思いを抱えながら、もう一度、この歌を聴いた。
ますます胸に沁みこんできた。
いわゆる「六八コンビ」の歌だった。ある年齢以上の方には説明不要の作詞・作曲の名コンビである。


           *

永六輔・作詞 中村八大・作曲

生きているということは


生きているということは 
誰かに借りをつくること
生きていくということは
その借りを返してゆくこと
誰かに借りたら 誰かに返そう
誰かにそうして貰ったように 
誰かにそうしてあげよう

生きていくということは 
誰かと手をつなぐこと
つないだ手のぬくもりを 
忘れないでいること
めぐり逢い 愛しあい 
やがて別れの日
そのときに悔やまないように
今日を明日を生きよう

人は一人では生きてゆけない
誰も一人では歩いてゆけない

生きているということは 
誰かに借りをつくること
生きていくということは 
その借りを返してゆくこと
誰かに借りたら 
誰かに返そう
誰かにそうして貰ったように 
誰かにそうしてあげよう
誰かにそうしてあげよう
誰かにそうしてあげよう



           *

偶然にしては出来すぎのようなタイミングでこの歌を教えてくれたFacebook友達のRさん、ありがとうございます。
不思議な気持ちです。


生きていくことで、これからの生き方で、恩返しをするしかない。
わたしは、今、己にそう言い聞かせています。
人生の折り返し地点をすでに過ぎ、決して先の長くない人生の時間。
しかしこれ以上悔やまないように、今日を明日を生きよう。
心の底からそう思うのです。

常盤新平さん、出会ってくださって、本当にありがとうございました。
どうぞ安らかにお休みください。

改めて……合掌。  


Posted by watanatsu at 04:38哀悼

2012年03月26日

金城繁師匠、逝く。出会ってくれて、ありがとうございました!!

本日の午後、名護市東海岸の瀬嵩(せだけ)の墓地で、金城繁さんの納骨が行われたという。病院で亡くなったのは、24日だったという。

残念ながらわたしは駆けつけることができなかった。その時刻、ちょうど普天間問題の解説記事を書いていた(これは、ある団体の定期刊行物のためにペンネームで続けさせてもらっている仕事だ)。

仕事も一段落し、今改めて北の空に向かって(地元豊見城から名護に向かってという意味である)、御冥福を祈りをしたところである。

金城繁さんのことをわたしは、出会った1997年当時から「師匠」と呼んでいた。
民謡研究所のお師匠さんだったからである。
出会ったときに交換した名刺がこれである。




当時のわたしは、辺野古新基地建設計画(当時は一般的に「海上ヘリ基地計画」と呼ばれていた)の是非を問う名護市民投票に向け、反対の意思を明確にする地域住民の長期取材を続けていた(取材の成果としての記事は『論座』(朝日新聞社)の98年3月号に書き、2010年7月刊の『誰が日本を支配するのか!? 沖縄と国家統合』(マガジンハウス)に再録。『論座』の前に写真週刊誌『FRIDAY』(講談社)にも写真家・森住卓氏とのコンビでルポを発表しているはずだが、掲載誌を紛失してしまっていて何を書いたか、やや記憶が曖昧になっている)。

その長期滞在の逗留先が、瀬嵩集落の「海と風の宿」だった。ここは車いすの移住者・成田正雄さんの経営する宿で、金城繁さんは、ちょくちょく宿に現れて、三線と唄を披露してくれたものである。若き日の労働で隻腕となったという金城師匠は、切断された右腕に特製のツメを装着して、工夫を凝らして三線をつま弾いていた。その様は、もちろん年季が入って絵になっていた。

この宿には、貧乏旅行の途上に何泊かするお客やら住民運動の支援者やら、結構若い女の子たちが泊まるので、その子たちに会いたくて師匠はこの宿にちょくちょく通っているのではなかろうか、と、ふと察せられる場面もあった。いやいや、まぁ早い話が、若い女の子たちが大好きな師匠であることは間違いないのだった(笑)。要するに、「すけべなこのオッサン、正直な人だなぁ、憎めないなぁ」という感想をわたしは抱いたものだった。

師匠はしかし、男のわたしに対しても、とても人懐っこい態度で寄ってきて、よく話しかけてくれた。たわいもない世間話を含めて、たくさんたくさん話をしたはずだが、ほとんど話の中身は忘れてしまった。

またある日には、瀬嵩の小学校の運動場で行われた地区の運動会に出場するランニングパンツ姿の師匠を当時持っていた小さなカメラで撮らせてもらった、という記憶もあるのだが、その写真は、まだ発見できていない。どこかからデータが出てきてほしいのだが、もしかしてもしかするとインスタントカメラで撮ったのかもしれない。これまた記憶が曖昧だ。

わたしの書いた記事には、97年当時もその後も、師匠は一行も登場していない。
いや正確には、昨年の7月に、徒然なるままに綴ったブログ記事に、ほんの少し登場している。
http://watanatsu.ti-da.net/e3523673.html

偶然、食堂でお会いしたことが書いてある。
思えばこのとき、何年振りかでお会いしたはずだった。以前の印象と比べて、その日の師匠は元気がなかった。
師匠は疲れていた。そして、その日も以前と変わらず、すこぶる正直に、身の上話を語り続けた。
もしかしたら、そんな師匠の溢れんばかりの率直さが、「またいつでもお会いできる人」という錯覚を私の胸に刻んでいたのかもしれない。

ただ、その日は、とても愚痴っぽかったのが気になってはいた。でもそれが、お会いできた最後の日になってしまった。
あれは、2011年7月22日。その翌日のブログを見ると、たわいもない文章のなかに、なぜか大切ないろんなことが詰め込まれている。師匠がまるで「あの日を思い出して」と語りかけているかのような気持ちになってくる。

わたしは、……もっとお話に耳を傾けるべきではなかったのか。

戻らぬ時間を嘆いても始まらないのだが、そんな思いをいかんともしがたい。その後、患っていたリウマチがどんな具合になったのか、いつごろ入院されたのか、まるで知らぬまま時が流れてしまった。

あの日撮らせていただいた金城師匠の写真が、もう少しあったので、ここに改めてアップしたい。





この拳の握り方、とても優しいけど、いろんな思いがこもっていたと思う。








金城繁さんがあちら側へ旅立った3月24日は、大切な友人の13回忌だった。
わたしはその法要にも駆けつけることができなかった。いや、無理をしてでも駆けつける気持ちがあれば、駆けつけることができたかもしれない。じつはそのような行動がとれなかった理由があり、複雑な思いで胸がいっぱいになるような日だった。その日に、師匠は逝ったのだ。

また3月24日は、わが父の83回目の誕生日でもあった。父の携帯へはメールを打った。

不思議な一日。
琉球キングスとFC琉球がホームゲームで快勝した日。
旧暦3月3日、「浜下り」の日。

今しばらくは、ただ、その「不思議」をかみしめたい。

師匠、おいらと出会ってくれて、ありがとうございました。

どうか安らかに。

合掌。


  


Posted by watanatsu at 20:37哀悼

2011年04月26日

女優・田中好子さんの肉声の遺言。

昨日4月25日は、「米軍普天間飛行場の早期閉鎖・返還と、県内移設に反対し国外・県外移設を求める県民大会」から、ちょうど1年。少し前の2月の県議会における全会一致の同趣旨の決議を経て、超党派の「沖縄の総意」を示してから、もう1年経ってしまった。

昨年5月には、これをなんとかそうではないことにしたい、という思惑見え見えの産経新聞・宮本雅史那覇支局長の「ウソ記事」もネット上で目立ったりしていたが、当ブログでも共著『誰が日本を支配するのか!? 沖縄と国家統合』(マガジンハウス刊)においても「ウソ記事は訂正せよ」という意味の批判を書いたので、くどくど繰り返すことはやめよう。

全国の賢明なる読者の皆さん、「オール沖縄」の「県内移設反対」の民意は、1年前よりも、さらに強固になっているものと思ってくれて間違いないのです。そのことを、くれぐれもお忘れなく。たとえば昨日の地元紙の記事のほんの一部を参照されるだけでも、この事実は伝わるかと思います。以下のアドレスへ訪問されたし。

沖縄タイムス→http://www.okinawatimes.co.jp/article/2011-04-25_17031/

琉球新報(社説)→http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-176443-storytopic-11.html

でもって、わたしの頭の中を、いまいろんなことが駆け巡っている。

昨日、衝撃を受けたのは、スーちゃんこと女優・田中好子さんが生前に残した肉声のメッセージだった。いかにも苦しそうに、か細い声を振り絞って、語ったメッセージ。

告別式(喪主は夫の小達一雄さん)の模様を伝える夕方のニュースで一部を耳にして、夜、ネットで調べて、「ニコニコ動画」でその肉声メッセージのすべてを聴いた。

おそらくは多くの人がそうであったように、止めようのないものがわが胸の底から瞼へと溢れてきた。

自身の死後に聴かれることを前提に、東日本大震災発生から2週間後の病床で録音されたメッセージである。ひと言ずつ、噛みしめるように、力を振り絞って発せられた言葉たちである。


命ある者が、いまできること、すべきことは、なんなのだろうか。


己の日常の甘ったれた心根を、根底から揺さぶる問いの言葉のように思えた。


                 *


 
 こんにちは。田中好子です。

 今日は3月29日。東日本大震災から2週間たちました。被災されたみなさまのことを思うと、心が破裂するように痛み、ただただ、亡くなられた方々のご冥福をお祈りするばかりです。

 私も一生懸命、病気と闘ってきましたが、もしかすると負けてしまうかもしれません。でも、そのときは、必ず、天国で被災された方のお役に立ちたいと思います。それが私の務めと思っています。

 きょうお集まりいただいているみなさまにお礼を伝えたくて、このテープを託します。

 キャンディーズでデビューして以来、本当に長い間、お世話になりました。幸せな、幸せな人生でした。心の底から感謝してます。特に、ランさん、ミキさん。ありがとう。2人が大好きでした。

 映画にもっと出たかった。テレビでもっと演じたかった。もっともっと女優を続けたかった。

 お礼の言葉をいつまでも、いつまでも、みなさまに伝えたいのですが、息苦しくなってきました。

 いつの日か、いもうと(義妹)夏目雅子のように、支えてくださったみなさまに、社会に少しでも、恩返しができるように、復活したいと思ってます。

 一(かず)さん。よろしくね。

 その日まで、さようなら。

                 *


(メッセージ全文は、まんたんウェブより引用)
http://mantan-web.jp/2011/04/25/20110425dog00m200040000c.html


わたしが視た動画はこれ↓↓↓であるが、ニコニコ動画に視聴者登録していない方は、登録後視聴可能となるものと思われます。(あいかわらず、webオンチで、正確には仕組みがわかっておらず、ご寛容ください)




残りの人生のわが命の使い方を含めて、いろんなことを考えた一日だったが、続きは、改めたほうがよさそうである。



合掌。


  


Posted by watanatsu at 09:02哀悼

2010年12月29日

大恩人の四十九日。






やはり後回しにすることなく、書いておきたい。

12月27日(月)の午後、大恩人・金城清子さん(沖縄尚学高校ボクシング部監督・金城眞吉氏夫人)の四十九日の法要が、首里石嶺の金城家で営まれた。

家族・親戚・教え子・友人の集うその場に、わたしも同席させていただいた。

若い僧侶だが、しっかりした読経だった。誠意をこめて故人を偲ぶ、ごく真っ当な法話だった。

そしてしみじみ思った。

教え子たちからも「奥さん」と呼ばれ、信頼され、慕われていた故人の愛情を、わたしもこの18年間にわたって、いかにたくさん享受してきたことか、と。

幾度となく頂いた手料理の数々。その腕前は、プロ級だった。もてなしの「心」とはこのことを言うのだ、と感じ入る料理だった。金城家にお邪魔するたびに、本物のウチナー家庭料理の数々を頂き、お世辞でも大げさな物言いでもなく、本当に繰り返し感動を覚えたものである。

また、その語りは、いつでも真っすぐで曇りがなく、聞く者を励ます力があった。
わたしの取材に対して、いつでも真摯に答えて下さったことはもちろんだが、時にはある取材対象の出来事に関して頭を抱えてこぼすわたしのグチをも、じつに大らかに、当方に共感の姿勢を示しつつ受け止めてくださったものである。それだけでこちらは安堵し、心強い思いがした。

ありがとうございます、奥さん。
ご恩は、決して忘れません。

七日ごとにお線香をあげさせていただきながら、胸のうちで最も多く、最も強く繰り返した言葉は「ありがとうございます」、だった気がする。

今、改めて申し上げたいのは、どうぞあちらで、ゆっくりと安心してお休みください、ということである。

さらに、この四十九日間、別の思いもしみじみと抱いた。

沖縄流の「別れの儀式」の丁寧さ、である。
死者と向き合う生者の、心構えの見事さ、である。
いまどきのヤマトでは、葬儀の日に初七日も済ませ、あとは四十九日へと飛んでしまうのが普通である。

しかし沖縄では、七日ごとに家族が客人を迎える準備をしっかり整え、7週間、きっちりとおつとめを果たす。わたしはありがたいことに、四十九日まで七日ごとに必ずお線香をあげさせていただくことができた。本当にお線香をあげさせていただくのみで、すぐにおいとましてしまう日も何度かあり、金城監督はじめご家族には、かえって失礼かと思いつつも、わたしはわがままを通させていただいた。そうして沖縄流の「お見送り」の仕方を体験させていただきながら、故人への感謝の思いが深まっていくのを実感できた。

わたしの身近な人には、「毎週行くというのは、よほど親しく感じている人のところだね」と言われた。わたしの気持ちとしては、ただ親しく感じる、というのとは違った。くどいようだが、大恩人なのだ。

沖縄へ取材で通い始めた18年前から、様々な意味で大きな力を与えつづけてくださった方なのである。

もっともっとたくさんお会いしていろいろとお話を伺いたかった、という思いを今も強く抱いている。

けれど、そればかり思っていても仕方がない。これからは、故人がわたしに、あるいは世の人びとに対して、本当に伝えたかったことはいったいなんなのか、振り返り、かみ締める作業をさせていただきたいと思う。

それは、わたしが今この島に住まわせてもらっている意味を本当に知る、そのことに通じる、大切な作業なのだと思う。

ありがとうございます、奥さん。


合掌。

  


Posted by watanatsu at 18:07哀悼

2010年11月10日

大恩人の訃報。

わたしにとって沖縄での大恩人のひとり、金城清子さんが昨日11月9日の夕刻、亡くなられた。

長男の勝也さんが、ご丁寧なお電話をくださった。

ショックである。いまも動揺している。

「ボクシング王国・沖縄」の根幹の部分を夫の金城眞吉さん(現沖縄尚学高校ボクシング部監督)と二人三脚で、築きあげてきた大功労者である。

40年近くの長きにわたって、ボクシング部寮生の母代わり、監督の留守中の監督代理、料理人、栄養管理者、ときには選手たちのカウンセラーと、ひとり何役もこなして、まさに休みなく働いてこられた。

その大いなる愛情を受けた選手たちの中から、多数の全国高校チャンピオンが生まれ、教え子のなかからプロの世界チャンピオン、東洋太平洋チャンピオン、日本チャンピオンも続々誕生し、そしてプロやアマの指導者も育っている。

最近は、周囲の勧めもあって、24時間かかりっきりだったボクシング部員の世話から、ようやく少し距離を置くことが可能な状況を迎えられたようだった。

わたし自身、取材者としての立場をこえて、本当にいろいろな面でお世話になった。
ときには、わたしのグチを聞く役目まで務めてくださった。

しかしわたしは、このところ少しご無沙汰をしてしまっていた。

本当に、もっともっとお会いして、いろいろとお話をうかがいたかった方である。

まだ、60代。
早すぎる。

先月末に病院に担ぎ込まれたときには、すでに手の施しようのない状態の重篤な病を患っておられたようである。ただ、長男の勝也さんは、「病院に入院したとき、もう意識がなかったので、痛みで苦しんだりすることはなかったと思います。その点だけが、救いでした」と、すでに覚悟を決めていたことが伝わってくる、気丈なしっかりした声で、教えて下さった。



当分、気持ちの整理はつきそうにないのですが、いまはただひたすらに、ご冥福をお祈り申し上げます。

いままで、本当にほんとうに、ありがとうございました。

どうか、これから、ゆっくりと、お休み下さいますようお願い申し上げます。

  


Posted by watanatsu at 08:57哀悼

2010年08月14日

佐藤優さんの母上のご冥福をお祈りします。


昨日は、終日メールや電話で幾人もの方と連絡を取り合い、お詫びをしたり、お願い事をしたりで精一杯。ある一件がきっかけで、内省的にならざるを得ない一日となり、外出を取りやめた(だから、きのう予定していた石川真生さんの写真展も、きょう今から出かけることにする)。

昨夕、東京滞在中には必ず読む東京新聞をこの日はまだ買っていないことに気づき、コンビニへ。東京新聞の名物コーナー「こちら特報部」面(8月13日付)を開くと、執筆者日替わりの「本音のコラム」欄は、ちょうどわが高校同期生・佐藤優氏(作家・元外務省主任分析官)の番だった。

そして驚いた。

コラムの冒頭に、なんと佐藤優氏の母上が7月27日に亡くなられていたことが記されていたのである。わたしは佐藤さんの母上とお会いしたことはないが、非常にショックだった。亡くなられたことはもちろん、今まで知らなかったということも。

わたしはそのコラムを読むまで、ご逝去の事実を、まるで知らなかったわけだし、昨日、東京新聞を買いそびれていたら、知るのはもう少し遅くなったかもしれない。きのうご紹介した佐藤優+魚住昭 責任編集『誰が日本を支配するのか!? 沖縄と国家統合』(マガジンハウス)に執筆者として参加したばかりのわたしに、関係者の誰からもなんの連絡もなかったということは、おそらく佐藤さん自身がごく身近な人たち以外には知らせないことを選んだ、ということかもしれないと想像した。

昨夜、佐藤さんには、メールでは失礼かと思いつつも、メッセージをお送りした。
そのメールにも記させていただいたことだが、佐藤さんの母上が亡くなられた7月27日、なぜかわたしは不思議な行動をとっていた。

その日のことを当ブログにはこう書いていた。

2010年7月28日の記事
『誰が日本を支配するのか!?』。8月12日、3巻同時刊行決定。
http://watanatsu.ti-da.net/e2990034.html

2010年8月8日の記事
「広島に原爆が落とされた日」
http://watanatsu.ti-da.net/e3002902.html


改めて振り返ってみると、本当に不思議な日だった。

佐藤優さんと魚住昭さん責任編集の上記単行本のいわゆる「ゲラ戻し」の作業が完了したのが、前日26日の夜。ホッと一息つき、翌27日は夕方近くになって、その夜に、国立療養所沖縄愛楽園(名護市)で沖縄戦フィルム1フィート運動の会の上映会が開かれることを思い出し、わが仕事部屋のオーナーである写真家・石川真生さんの愛車を借りて、北へクルマを飛ばしたのだ。
(写真は、沖縄愛楽園公会堂ホールで、1フィート運動の会・福地廣昭代表の挨拶に聞き入る満場の参加者)




そして結果的に、この7月27日の夜は、沖縄在住の書き手である以上、避けて通れない沖縄戦のこと、米軍基地の問題、その代表格の「普天間問題」、あるいは国立ハンセン病療養所のこと、それらすべてに対して、わたしはこれからようやく自然体で向き合うことができるのかもしれない、と、やや気が重いがどこか清々しくもある自覚の仕方をした夜となった。

前掲の2回のブログには書ききれていないのだが、沖縄愛楽園からの帰り道、残波岬(読谷村)に向かう前には、「道の駅かでな」から、巨大な嘉手納空軍基地の夜の姿をしばし眺めている。なんのためにそうしたのかは、自分でもうまく説明できない。とにかくこの夜の嘉手納基地を眺めておきたかったのだ。時刻は22時、オキテ破りの戦闘機の夜間離発着はこの日は見られなかったが、それでも軍用ヘリが数機、バタバタとうるさい音を立てて眼前を過ぎていった。

それから残波岬へ向かい、十六夜のおぼろ月の下の海を眺め(ここまではすでに書いた)、じつはそれにまだ飽き足らず、同じ読谷村の北谷町に近いトグチビーチへも寄っている。このビーチも、自然の海岸線を生かした公園になっていて、過去何度も訪れているお気に入りの場所。昼間は、嘉手納基地で離発着する戦闘機の轟音を聞かねばならない時間も多いし、ビーチの上空を軍用ヘリが堂々と横切ったりもするのだが、さすがに深夜は轟音もなく静かだった(むしろ、ビーチには真夜中だというのに、若い男女のグループの嬌声が響いていた)。

その海岸で、またしばし、夜の海を見つめて時を過ごした。
ここで写した十六夜の月の姿は、こんな具合であった(わたしの携帯ではこれが限界)。



豊見城の部屋に戻ったときは、日付が変わっていた。
あの夜の行動は、自分でも不思議であり、今のところ、適当な言葉で説明することができないのである。

ただ、その日、佐藤さんの母上が逝去されていたという事実を、わたしは生涯忘れないと思う。なぜなら、前日「ゲラ戻し」を完了した原稿(今、書店に並んでいるわけだが)では、佐藤さんが母上から受け継いだ「沖縄戦体験」の重要性について、佐藤さんとの往復書簡というかたちで、強調したばかりだったのだ。そして、翌日7月27日の不思議な夜があった。

だからわたしは、佐藤さんに、メールでこうお伝えすることになった。
「偶然とは思えません。2010年7月27日は、忘れられない日になりました」

つまるところわたしは、佐藤優氏と同じように、「目に見えない力」を大切に感じる人間なのである。

最後になったが、哀悼の意をこめつつ、昨日8月13日付、佐藤優氏の「本音のコラム」(東京新聞朝刊・23面)を全文引用する。
                    *

[最後の特攻機]   佐藤優

 7月27日、筆者の母・佐藤安枝が病死した(享年79)。母が8月15日の終戦記念日前後にいつも筆者に話したことがある。
 沖縄戦で米軍の捕虜になった母は、大浦崎(辺野古)の沖縄人収容所に連行された。ある暑い日の昼すぎ。収容所幹部が「日本は降伏した。戦争は終わったので、今日からここに星条旗を掲げる。敬礼するように」と命じた。星条旗が掲揚されたが、誰一人敬礼しない。当局も星条旗に敬礼させることをあきらめた。その数時間後のことだ。
 しばらく聞かなかった大砲と機関銃の激しい音がした。誰かが「日本軍の飛行機だ」と叫んだ。母が海をみると大浦湾に停泊する米艦船に翼に日の丸がついた十数機の特攻機が突っ込もうとしている。日本が降伏したにもかかわらず恐らく九州から飛んできたであろう日本軍機だ。
 その姿を見て、母は、その数カ月前、激戦のさなかに司令部で陸軍将校から聞かされた「いま戦艦大和が沖縄を助けに向かっている。日本は絶対に沖縄を見捨てない」という話を思い出した。結局、全機が打ち落とされ、米艦への体当たり成功した特攻機は一機もなかった。
 辺野古崎周辺は、大日本帝国最後の特攻隊が散華した場でもあるのだ。ここに米海兵隊基地を移設して星条旗を掲げてもよいのだろうか?(作家・元外務省主任分析官)
                 

            *

以上である。佐藤さんとわたしの「国家統合」に対する感覚は、必ずしも一致しないだろうが、辺野古周辺に新しい基地を建設してはいけない、という考えは、完全に一致しているはずだ。

佐藤さんの言葉が、英霊に想いをはせる季節の右翼・保守層の人たちの胸に深く届くことを願ってやまない。



  


Posted by watanatsu at 16:35哀悼

2010年07月04日

オグリキャップよ、安らかに。

昨日はわたしにとって、この夏の沖縄高校野球の観戦・取材スタートの日であった。
久々に、興南高校・我喜屋優監督や島袋洋奨投手に、試合後の取材をさせてもらった。
島袋君もチームもまだ本調子とは言えず、監督もピッチャーも現在の課題、反省点を淡々と述べていた。
それでも、浦添高校に5対0で貫録勝ち。
浦添の宮城諒投手は、小柄ながら度胸とセンスを感じさせるピッチング。甘い球は興南の打者に痛打されたが、随所に見せ場があった。

その後、嘉手納高校vs北山高校の試合を中盤まで観戦し、別の所要を済ますためわが仕事部屋(石川真生邸別館です)に帰ってきて、しばらくすると睡魔に襲われた。このところ寝不足だったことに気づいて、仮眠。

そうして夜に目覚めてパソコンを開き、ネットのニュース記事に驚いた。

この日の午後、オグリキャップが他界していた。

ふと気づけば、あの「奇跡的復活」を遂げた引退レースから、早くも20年が過ぎようとしていた。
功労馬として隠居生活を送っていた牧場で脚を骨折し、手の施しようがなかったという。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100703-00000539-sanspo-horse

バブルの時代を駆け抜けた、スターホースだった。









(写真は、JRAホームページより)

JRA50周年記念サイト
http://www.jra.go.jp/50th/html/50horse/47.html (レース動画あり)

ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%97

しかしそれ以前に、わたしにとっては、あくまで生身の一頭の馬として、魅力に満ちた存在だった。
やがて、初めての長編ノンフィクション(『銀の夢 オグリキャップに賭けた人々』)を書かせてくれる恩人ならぬ「恩馬」となった。

理屈抜きで、惚れた馬だった。
「彼」を追いかけつつ、わたしは多くの人と出会った。
その人たちは、「彼」と触れ合い、そのことで幸運に恵まれた人々であった。

取材にのめり込んでいる最中に、わたしはしばしば、不思議な感覚にとらわれた。
オグリキャップという名の一頭の生き物に〝惹かれて〟あちこち貪欲に足を運んでいるつもりでいるが、じつはわたしが「彼」に導かれるように〝曳かれて〟歩いているだけの話ではないか。そう感じたのである。

実際、「彼」に書かされるようにして書いたその本は、望外の評価を得た。

歳月は流れた。


未明から朝にかけて、わたしはまた、泥のように眠った。

さっき、ネットでこんな動画を見つけた。
やっぱほんまに、便利な時代である。
北海道の牧場で草を食む、1ヵ月と少し前の、オグリキャップの姿である。
http://player.video.search.yahoo.co.jp/video/91af6177bd7038a361f32b44526d4122?p=%E3%82%AA%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%97&fr=slv1-ff2tbtop&tt=c&ei=UTF-8&from=srp&rkf=1&r=9


今わたしは、沖縄に住んでいて、そしてまた、まさに何ものかの力によって何かを書かされようとしている感覚を覚えつつある。これは決して悪いことではない、と感じている。

そういう時期だけに強く思うのかもしれないが、「彼」がもたらしてくれたすべてに対して、心から深く感謝したい。

オグリキャップ殿、ご冥福を祈ります。
長い間、お疲れさまでした。
たくさんの恵みをありがとうごさいました。

裏山の森で激しく合唱する蝉たちの声を聴きながら、
夏本番の沖縄より。

合掌。
  


Posted by watanatsu at 08:38哀悼

2010年04月08日

屋良文雄さんのご冥福をお祈りします。

きょうの沖縄には、久しぶりに陽光が降り注いだ。午後から犬2匹を連れて、気持ちよくウォーキングしてきた。

帰ってきて、琉球新報電子版を覗いたら、ショッキングなニュースを目にすることになった。

本日午前中に、ジャズピアニストの屋良文雄さんが亡くなられたというニュース。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-160529-storytopic-6.html

享年70歳。戦後沖縄を象徴する存在のおひとりが、旅立たれた。

ジャズ好きのわたしとしては、かなりショックである。闘病中であることは、昨年だったか、ローカルニュース番組内のドキュメントを見て知っていたが、その後だいぶお元気になり、ライブ演奏をされるようになったという噂もまた耳にしていた。たしかつい先月にも、コンサートをされたばかりのはず。

残念なのは、いつでも行けるという気持ちがあったせいか、屋良さんご自身のライブハウス「寓話」へ、ついに一度も足を踏み入れることのないまま時を過ごしてしまったこと。那覇バスターミナル近くのあのお店の前を通るたび、こんどぜひ来ようと繰り返し思って、はや10数年(いくらなんでも長すぎる、、、)。後悔しても、もう遅い。間近でお会いすることはできなくなった。

しかし、音と映像は残ります。

ただただ、ご冥福をお祈りします。


  


Posted by watanatsu at 16:19哀悼

2010年02月25日

悔いのない人生のために。

きのうもきょうも、ぽかぽか陽気、夏の陽射しの沖縄である。

昨日は、具志川ボクシングジム会長・金城長栄さんのお葬式に参列。特別に親しいお付き合いをさせていただいたわけではないが、具志川ジム所属、あるいは出身のボクサーの試合ををたくさん見てきているし、取材させていただいている。大変お世話になってきたことはいうまでもない。「ボクシング王国・復活」のために力を尽くされたキーパーソンの一人であった。

儀式の過程で、日本ボクシングコミッション西部事務局スタッフの手で、テンカウントのゴングが打ち鳴らされた。ゴングとは、こんなに哀切な音色を発するものだっただろうか。

それにしても、早すぎる死。まだ57歳だった。
強い頭痛を訴えられてから他界されるまで、あっという間の出来事であった。脳梗塞とのことであった。

心よりご冥福をお祈りいたします。

この数日、石川真生さんhttp://blog.livedoor.jp/ishikawamao/の写真を眺めるたび、人の「生と死」について思いを致しているのだが、きのうは特別に、その思いが強く、深くなった一日である。


じつは、葬祭場に早く着きすぎてしまったので、いったん会場を離れ、そこから程近い世界遺産「勝連城址」へ登ってきた。
晴れていたので、海中道路で繋がる島々や、津堅島、南は知念半島、北はやんばるの濃い緑の山々が一望のもとに見渡せた。しばし、風に吹かれて、むぬかんげー(物考え)した。

「ちゅら島……」と内心でつぶやく。
本当に美しい島だ。
軍事基地などなくなれば、もっと美しい島だ。

眼下の海には、工事の中断した、いわゆる「泡瀬干潟埋め立て事業」の哀しい姿が投げ出されている。

わたしはこの島の真実の姿を、まだまだ少しも書けていない。

人間誰しも、いつ逝くかわからない。
「その日」に向かって、悔いのない日々を送っているだろうか。

今のわたしに必要なことはなんだろう。縁(えにし)に感謝しつつも、やはり、もっとなりふり構わず前進することかもしれない。

昨夜は、写真展会場から、ある会議の場へと、真生さんに同行させてもらった。このことについては、そのうち、当ブログでも書くべき日は来るだろう。この成り行きは、意外であり、楽しみでもある。真生さんに感謝すべきことが、またひとつ増えた次第である。

自身のエンジンの回転数を、もう一段階、上げねばならぬ。



合掌。

  


Posted by watanatsu at 14:50哀悼

2010年02月10日

立松和平さんの訃報に接し、与那国に想いをはせる。

作家の立松和平さんが8日に亡くなった。

昨夕のテレビニュースで知った。ちょうどわたしより一回り上、亥年生まれの62歳。早すぎるとしか言いようがない。

親しくさせていただいたわけではない。というか、電話で会話させていただいただけの関係。しかも、20数年前に一度きり。わたしが駆け出しの雑誌記者として、日中バタバタ走り回り、夜はしょっちゅう編集部に泊まり込んで作業をしていた、超多忙なバブル絶頂期の話。立松さんは、映画化もされた『遠雷』という小説で、すでに高い評価を得たあとだった。だから、雑誌編集記者としてのわたしの頭の中の「気になる文化人リスト」には、立松さんの名も入っていたはず。

しかしそのとき、何についてコメントを求めたのか、それともインタビューを申し込んで断られただけだったのか、まるで覚えていない。はっきり記憶にあるのは、そのときの電話は編集部からではなく、当時住んでいた杉並区のアパートの部屋からかけていたこと、それゆえか与那国島の話題を心置きなく持ち出すことができて、その瞬間から打ち解けた空気が互いの間に生まれたこと、である。

「そうかぁ、君のほうが先輩なんだな」

電話の向こうの立松さんはそう言って笑った。後に「ニュースステーション」のリポートでよく知られるようになった、栃木なまりのあの声で。

わたしは1978年、79年、83年と3シーズン、「与那国島サトウキビ刈り援農隊」に参加している(正確には83年は島の農協に直接連絡しての個人参加だった)が、立松さんも、81年に「援農隊」の一員として、同じように島の農家に住み込み、畑で汗を流していたのである。

立松さんが投宿し、その後も家族付き合いを続ける大嵩さんという農家と、わたしが最初の年に世話になった花城さんという農家は親しく、まさに「ゆいまーる」の仲間でもあったので、後にわたしは花城さんのオヤジさんから、立松さんの活躍ぶりを聞かされたりもした。逆に立松さんの文章に花城さんが登場することもあった。いずれにせよ、はるか年下の若造が、「サトウキビ刈り」に関しては少しだけ先輩だったわけである。

わたしは、その電話でいつかお会いできればありがたい、と申し上げ、立松さんも、そうだね、と同意してくれていた。しかしその後、わたしは積極的にアプローチすることもなく、一読者として時々小説は読ませてもらいながら、あっという間に今日に至ってしまったのある。

沖縄県では、離島も含めて、今がサトウキビ収穫シーズンの真っ只中である。

シーズン開幕に合わせて「援農隊」の世話人として与那国島に通っている人がいる。藤野雅之さんである。
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Posted by watanatsu at 15:31哀悼

2009年11月18日

新月の夜に、詩穂ちゃんの死を想う。

 今宵は新月。
 月の満ち欠けに敏感な生きものであるところのわたくしめ、月が欠けていく時期、内省的になる傾向がある。そのなかでも、特別な夜というべきかもしれない。

 沖永良部島(鹿児島県和泊町)で生まれ育った小学1年生の内山詩穂ちゃんが、16日の午後、東京都内の病院で亡くなった。あまりにも早すぎる死である。
 
 そのことは、その日のうちに、複数のブログ記事で知った。
 このところ、「てぃーだブログ」のトップページでも、詩穂ちゃんの命を救うために、ブログで貯まったポイントを寄付する方法があると告知されていた(確認したら、わたしのポイントは寄付できる最低ラインに達していなかった)。

「しほの生命を守る会」のブログを拝見して事情を把握したし、複数のブロガーによる募金活動やその告知協力が活発化していることも、何日も前から手に取るように伝わってきていた。
 
 詩穂ちゃんが、拡張型心筋症という重い病気にかかり、心臓移植しか助かる道のないことや、約1億円もの莫大な費用をかけてアメリカでの手術に臨むしかないことも、理解していたつもりだった。

 しかし今朝の新聞(11月17日付琉球新報29面)を読みながら「ああ、そういうことだったんだよね、詩穂ちゃん。。。」と詳しい事情を一層理解した。皮肉にも、亡くなったことを知らせる記事によって。なんと16日は、沖縄県内の支援者が、募金を呼びかける記者会見を那覇市内で開く予定だったというのである。なんとも悲しい巡り合わせである。

 かく申す一方で、今のところのわたしは、「脳死を人の死と認めるかどうか」という哲学的倫理的命題がまるで解決できていないので、自分がドナー登録(臓器提供者登録)することを、意識的に避けている状態にある。

 この先、どういう結論が出るか、自分でも未だにわからない。生涯ドナー登録せぬまま、くたばるかもしれない。

 けれど先日、詩穂ちゃんが早く渡米して心臓移植手術を受けられるように、と、ささやかながら募金には協力させていただいた。
 金融機関で振り込むほどの協力はできないなぁ、、、と思っていたところ、11月8日、県民大会当日の宜野湾海浜公園の舗道に詩穂ちゃんのための募金箱をもった人たちが、ずらりと並んでいたのである。これなら「少しですけど」と呟きつつ、「ちゃりんと音のするおカネ」を投げ入れることができる。
 協力できてよかった、と素直に思った。

 脳死そのものについて、未だ己の姿勢が明確になっていないのに、ドナーからの心臓移植を望む募金に協力したのは、なぜだろうか。

 じつは、ひと言で済む話だ。
「もしも詩穂ちゃんが、わたしの身内の子供だったら。。。」
 そう想像してみるだけで充分だったのだ。

 この事実は、このところ普天間基地移設問題に関する政治家の迷走ぶりに苛立っていたわたしが、自分でうまく理解できなかった苛立ちの正体を、くっきりと浮かび上がらせてくれた気がする。
 いわゆるヤマト(本土)に住む人の大半(すべてとは言わない)が、少しも想像力を働かせてくれていない。

 昨日テレビ番組で太田光〝総理〟と石破茂・自民党政調会長の討論を観て、心にわいた苛立ちや怒りも(もちろんそのほとんどは石破茂という人物に対してだが)、出所はそこに尽きるのかもしれない。

 沖縄の少女が米兵にレイプされたって、米兵が老人ホームの修理をしてあげればそれでいい、といわんばかりの驚異的な論理を平気で振りかざせる石破茂という男の人間性。ごく当たり前の想像力のかけらも働かすことのできない哀れさ、、、。こういう不気味な人間に、誰が政治を任せたいなどと思うものか。

 妙なタイミングで、本日火曜日、石破氏は沖縄に来た。
 自民党県連から意見を聞いた。そしてその県連が大いなるバックアップをしてきた翁長雄志・那覇市長から、「基地はもう要らないという沖縄の民意をないがしろにしたら、国の安全保障が揺らぐことだってありますよ」という意味のことを言われ、さすがにビックリして反論できずに退散したようである。
 
 わたしは自民党支持者ではないが、翁長さん、あんたは偉い、肚が据わっている、とほんとに思った。国家のために沖縄は我慢し続けろ、という考え方があきらかな自民党政調会長に対して、堂々と反対意見を述べたのだ。持論の「硫黄島移設案」も披露したという。

 その直前の2日間、沖縄訪問をして、県民の反感を買い続けた岡田克也外相は、あきれたことに「県外移設を検証してもいない」ことを記者会見であっさり認めて、東京へ帰っていった。
 これではもはや、自民党の政治家を批判する資格はないだろう。

 岡田さん。
 どこまで、アメリカの恫喝に怯えれば気が済むの?
 普天間の危険除去のためには結論を急がねばならない、という表向きは正論に見える強迫観念が、自分の首をしめていることに、なぜ気づかないの?

 爆音・事件・事故の被害に苦しんできた基地周辺の住民は、あなたが思うほどヤワじゃないんですよ。
 長い長い時間、耐えに耐えてきているんだから、むしろ今、慌ててとんでもない結論なんか出されては困る、と思っているんですよ。

 このままだと結果的にあなたは、「既定路線を進みたい官僚の言いなりなった大臣」の烙印を押されてしまいます。おーい、岡田さんの周りに誰か、まともなブレーンはいないのかー。
 沖縄県民は、ひたすら鳩山首相を励まし続けるしかないのかー。

 書いているうちに、ぜんぜん内省的でなくなってきた。
 ああ、もうとっくに日付もかわっている。

 政治にとことん疎い、しかも日々だらしなく生きている、こんなお気楽ライターが、思わずツッコミを入れたくなる政治家が多すぎる。これって、ほんとに、どういうことなんだろうね。
 
 日米同盟や、平和維持の方法についてや、そもそも平和とは何かという意識は、国民一人ひとり、それぞれ違うはず。
 世界の軍事情勢についての理解度も、千差万別に違いない。

 しかし、こう想像するぐらいは、誰にだってできるはず。
「もしも沖縄が、わたしの故郷だったら。。。」
「もしもわたしが、沖縄県民だったら。。。」
「もしわたしが、名護市辺野古周辺の住民だったら。。。」
「もしわたしが嘉手納基地周辺の住民だったら。。。」
 ちょっぴりそう想像したあとで、あなたはいったいどういう言動を選ぶだろうか。

 じつは少しの想像力が働くかどうか、たったそれだけの、簡単な話なんです。

 だからこの新月の夜は、せめて詩穂ちゃんのご冥福を静かにお祈りしたい。
 
 地元の沖永良部島に戻って友達と遊ぶ日を楽しみにしていたという詩穂ちゃん。
 わたしはあなたに何もしてあげられませんでした。
 でも、あなたは詫びてほしくはないよね。
 がんばったんだもんね。


 どうか安らかに眠ってください。

 合掌。

 ほんのほんの少しだけ詩穂ちゃんに縁のあったこのおじさんは、脳死が人の死か、慌てず考え続けます。
  


Posted by watanatsu at 01:35哀悼

2009年10月07日

写真家・平敷兼七さん、ご冥福をお祈りします。

 今朝、石川真生さんのブログを開いたら、悲報が目に飛び込んできました(10月6日の記事)。
 真生さんの写真家仲間でアニキ分の、平敷兼七(へしき・けんしち)さんの死について、書かれていたのです。

 わたしは残念ながら面識はなかったのですが、名前は存じ上げていました。断片的ながら、その作品をどこかで拝見した記憶もあります。しかし恥ずかしながら、作品の全体像も、人物像も、詳しくは知らぬままでした。亡くなってから気になる自分に、やや後ろ暗さを感じつつも、遅すぎることはないはずだ、と言い聞かせてみました。
 そしてネットを調べてすぐに発見できたのは、いくつものブログにあふれた追悼の言葉たち。きっとたくさんの知己から愛されていた人なのだと思った次第です。

 真生さんの言葉を含めて、その一部だけでも紹介しましょう。

「まおの勝手におしゃべり」
http://blog.livedoor.jp/ishikawamao/archives/65282636.html

「平敷兼七の世界」
http://hesiki.ti-da.net/e2821764.html

「横井謙典 沖縄ブログ」
http://urayokoi.ti-da.net/e2818651.html

 そうして先ほど、夕方のウォーキングがてら、ジュンク堂書店那覇店まで行ってきました。

 この書店の素晴らしいところは、品揃えが豊富で目当ての本の見つかる確率が高いところと、立ち読み容認どころか、どうぞゆっくり読んでください、という意味の椅子まで、書棚の横にいくつも置いてあるところ。きょうは、その二つの要素にお世話になって帰ってきました。

 つまり、平敷兼七さんの写真集「山羊の肺 沖縄1968-2005」(影書房・2007年刊。同名の写真展によって、2008年・伊奈信男賞受賞)がすぐに見つかり、じっくりゆっくり、椅子に腰掛けて眺めさせてもらったのであります。しかし、申し訳ないけれど、きょうは本棚にそっと戻してきました。現在金欠病の真っ最中なので、お小遣いに余裕が出たときに購入いたします(貴店オープン以来、結構、書籍・雑誌購入で貢献してきたわけだし、たまには許されるよね、ジュンク堂さん。。。)。

 素晴らしい写真の数々が、その本には詰め込まれていました。
 きっと多くの人が語っているはずですが、そこに収録されているのは、間違いなく平敷さんにしか撮れない作品ばかりなのでした。しかも、作品がこちらに向かって強く迫ってくるのではなく、こちらが、ずずずーっと写真に引き込まれていくような、そういう力をもった作品たちでありました。
 しずかに、そして、はげしく、心を揺さぶられました。
 とくに売春街の女性たちを「職業婦人」たちと称し、親しみ以上の愛情深い眼差しで捉えた作品群には、脱帽でした(もちろん、ほかの人物たちも、素晴らしいですが)。

 写真の魅力を言葉で伝えるのは非常にもどかしいなぁ、と思っていたら、平敷さんの作品と人物についての名解説の載ったサイトを、さっき発見。そこには、写真集に収められた作品の一部も紹介されていますので、ぜひぜひ、ご覧になってみてください。その「BAKU」という名のWEBマガジンはこちらから↓↓
 http://www.geocities.jp/bakuedit/person/shozo/01-heshiki/01-heshiki.html

 平敷兼七。今帰仁村出身。10月3日、肺炎のため逝去。享年61歳。
 一面識もないわたくしめですが、遅ればせながら、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 平敷さん、われわれに、「すごい写真」を残してくれて、ありがとうございます!


 
ところで、台風18号は、ここ10年で最強クラスのようです。明日は本州での被害が心配されています。
 とくに紀伊半島の皆さん、四国・近畿・東海・関東地方の皆さん、くれぐれもご注意ください。
 明日もまた、無事な一日になりますように。
  


Posted by watanatsu at 21:45哀悼

2009年06月27日

心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 きょうはじつは、ブログの更新をかなり迷いました。

 わたしにとっては、たくさんうれしい出来事のあった日ですが‥‥。
 しかし、切なさを、悲しさをつよく胸に抱く日でもありました。
 迷いましたが、更新します。

 プロゴルファー・上原彩子選手、トライアスリート・千葉ちはる選手のお父様の上原美代志様が、6月25日の夕刻に亡くなられ、本日は告別式でした。
 しかし、正直に申し上げますが、わたしはその大切な御式に参列できておりません。恐縮至極です。それなのに書かせていただきます。わたしなりのささやかな方法で、哀悼の意を表させていただくことを、どうかお許しください。

 彩子選手のブログは、ときどき拝見しているのですが、ここ数日、ご無沙汰していました。
 金曜日が終わった時点で、今週のトーナメントのメンバーに彩子選手の名前がないのを知り、気にはなっていましたが、今週は体調がよろしくないのかな、というぐらいに思ってしまいました。でもその欠場の理由は、日付が変わってすぐの26日(土)未明の公式ブログ上で、彩子選手の個人事務所の方(おそらくお身内の方)が、きちんと明らかにされていたのです。つまり、当方が気づいていないだけでした。
 わたしはその事実を知らぬまま、本日に至りました(亡くなられたことを、本日まで知らなかったのです)。その上、お父様の告別式に駆けつけられぬまま、きょうという一日が終わろうとしています。そのことを振り返りつつ、やはり今、なんとも言えない後悔の念に包まれてしまっております。

 わたしが上原彩子さんにお会いしたのは、たった一度だけです。親しい間柄だなどと言ったら、叱られてしまいます。けれど、一度お会いしただけでも、決して他人とは思えないように感じさせてしまう、大きな力を、間違いなく彼女は持っています。だからこそ今、切なさと悲しさとを、わたしはたっぷりとこの胸に抱いているのだと思います。

 Team47がまだ雑誌スタイル(フリーマガジン)のときのこと。上原彩子選手は、2009年3月号の巻頭インタビューのページに登場してくれました。シーズン開幕戦のダイキンオーキッドレディスが近づいてきている時期でした。手帳を見ると、インタビューさせてもらったのは、1月31日。場所は、南城市の高台の、海の見えるカフェでした。
 
 ジュニア選手のころから、アマチュアのビッグタイトルを数々ものにして、その実力は、早くから誰もが認めるところだったわけですが、彩子選手にとって、昨年のフジサンケイレディスクラシック優勝が、意外にもプロツアー初勝利。今年は、きっと飛躍の年になるはず、という期待をこめてインタビューさせていただいたのでした。

 彩子さんは、想像していたとおりの、とても気さくで、しかも礼儀正しい人でした。
 ゴルファーとしての抱負を語ってくれただけでなく、自発的なエコ活動のこと、ピンクリボン活動のこと、いろいろと教えてくれました。
 それらをすべてインタビュー記事に盛り込むことができたわけではありませんが、一端は書くことができました。テレビのスポーツ・バラエティー番組などで見せる「天然キャラクター」のその根底には、非常にしっかりとした、社会人として、いえ人間としての、真っ当な姿勢がある。人として尊敬できる選手である。そう思いました。このことを読者に少しでも伝えたい。書き手としては、そんなふうに強く意識したものです。

 選手としての目標も明確でした。開幕戦のダイキンオーキッドはもちろん地元沖縄での開催。優勝争いに絡みたいとインタビューで表明し、公約どおり優勝を期待させる見せ場もつくりつつ、2位の成績。それから今季初勝利(通算2勝目)をあげるのに、長い時間は要しませんでした。けれど最近のプレーヤーとしての成績は、実力に比して、ほんの少し低迷しているように感じられました。
 もしかしたら、かねてよりがんで闘病中のお父さんの病状が思わしくなかったのかもしれませんが、こういう想像は、彩子選手自身は歓迎してくれないでしょう。やめておきます。

 いずれにしても、一度インタビューさせていただいただけで、思わずファンになってしまうような、そんな人格をもったアスリートです。
 そのお父さん‥‥。きっと、深い味のある人物。そうに違いない。お会いしたことがないのに、わたしはそう確信していました。
 インタビュー記事のなかでは、彩子選手の発言のままに、プロ初勝利のあと、お父さんから「気持ちを切り替えなさい」と厳しくも愛情深いアドバイスをもらった事実を、書かせてもらいました。
 そしてもちろん、「家族の支えって、ありがたいですね。頑張るための大きな力になってくれています」という彼女の言葉も記しました。

 その後のブログを拝見していても、療養中のお父さんのためにもいいゴルフを見せたい、お父さんを喜ばせたいという思いが、とてもよく伝わってきたものです。
 ですから、今きっと悲しみのどん底にいる彩子選手に向かって、気を落とさないで、などと言う気持ちにはなれません。非常にきつくて、あまりにも苦しい状態であるはずです。

 ですからわたしとしては、せめてきょうは、ただただお悔やみを述べるだけにしたいという気持ちです。

 最後に、ここ数日の(つまりお父様が亡くなられる直前の)、彼女のブログの言葉を、少しだけでもご紹介したいと思います。

【6月23日、午前11時47分更新のブログ】
 今日は慰霊の日です。
 12時に…
 みんなで黙祷しましょう
 戦争で亡くなった方々の
 ご冥福を祈り
 世界の平和を願いましょう


【6月24日、午後10時37分更新のブログ】
 人生 山あり 谷あり です
 色々なことを経験するけど
 できれば経験したくないこともあります
 でも全部乗り越えられる
 神様から与えられた試練だと思って
 何事もちばろう!
 (中略)
 今週も大自然の中でプレーできることに 感謝です

                    *

 トッププロが、厳しいツアーを戦い抜きながら、こんなに優しい言葉を紡いでいます。日々こういう言葉を発することができるアスリートの、最愛のお父さん‥‥。

 そのお父さんとお母さんの恭子さんの間には、娘が三人います。
 ちなみに、長女の千葉ちはるさんは、現役トライアスリート、そしてコーチとして活躍しています。わたしはまだ面識はありませんが、Team47編集部のメンバーはすでに大変お世話になっていて、今回のTeam47 press創刊号には、夫の千葉智雄さん(チームゴーヤー監督)とともに、フォトメッセージのコーナーにご登場いただいています。
 次女の露木よしのさんは、彩子さんのキャディーを何度も務めています。最近では、夫の(彩子選手から見れば義兄の)露木文吾さんがキャディー&マネジャーとして多大な力を発揮し、三女の妹・彩子選手をしっかりと支えています。
 そういうスポーツ家族のお父さんが亡くなりました。

 心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 
 *上原彩子選手のブログも、ぜひ直接ご覧ください。
   →http://ameblo.jp/ayako-uehara/  


Posted by watanatsu at 23:10哀悼